八月と云うと本当に楽しい月です。夏休みではあるし、七夕もお盆もあるからです。大人も子供も、お盆が来たら…、お盆が来るまでには…と精出して働らき、指折り数えて待ちこがれるのでした。
十三日、父親は座敷の南西の隅に敷いた蓆の上に、四斗樽二つ置き、その上に戸板をのせて、盆棚を作りはじめます。棚の下の四斗樽が見えない様に、杉の葉やオガラ(麻をとった殻)で垣根を拵えますが、真中に出入口を作る事を忘れません。
畳一枚程の棚の上には、毎年お盆の度毎に新調した花蓙を敷き、棚の四隅に立てた若竹には、ちやがの縄を張り渡し、正面前側の縄には、隠玄豆、大豆、さゝげ、黍の穂、栗のいが、青い柿の実、丹波ほうずき等、畑や家の廻りで採れた山の幸を何でもぶらさげます。これはきっと、今年の畑の出来栄えをご先祖様にご覧頂く為なのでしょう。そして他の三方の縄には、十三仏様や、お大師様や、その他もろもろの仏画やお経の掛軸を掛け、そうしてから、ご先祖様のお出ましを願うわけなのです。
阿弥陀様を真中にして、真黒く煤けてしまって戒名も何も見えない位牌を、幾つも幾つも並べます。でも、一っか二っの位牌は、仏壇の中にそのまゝにして置きます。これは留守居役をして頂く為に残しておくのだそうです。
灯明用の豆ランプも置き、茄子や胡瓜にオガラの足をつけた牛馬も出来たし、花蓙と一緒に買って来た蓮の葉(以前は芋の葉)の上には、サイの目に切った茄子ものせ、赤紫の小花をつけた鼠尾草(みぞはぎ)の小束も出来上りました。
夜が来ると子供達は、昼間のうちに父親が用意しておいたムイカラで作った太い松明を、パチパチと燃やしながら、母親と一緒にご先祖様のお迎えに行くのです。赤く燃える松明の火は、それを持っている男の子の顔も赤く染めています。二〇〇メートル位歩いた丁字路まで出ますと、西瓜畑や、田圃を越した宮田のあたりに、赤い火だけが行き交うのが見えるのです。すると子供達は
「ワア!おしょろ様だァ!」
と感激するのでした。子供達は少し大きくなるまで、漆を流したような闇の彼方に燃える赤い火を、お精霊様だと信じこんでいたのです。そこまで来た所で、母親は何時も「マアマア、お精霊様方、遠い所をよくお出なさいました。さぞお疲れでございましょう。赤ちゃんはおんぶしましょう、ホラ、ドッコイショ。」と、ただおんぶの真似をします。
母親の動作に習って、子供たちも亦、
「おじいさんや、おばあさんは手ェ引いてあげるよ…」と、顔も名前も知らない遠い昔の仏達と一緒に、松明で足元を照らしながら家に戻るのでした。軒下には盆提灯を吊るし(新盆の時は白無地のもの)緑側には、長い旅路で汚れたみ足を拭うようにと、濡らした雑巾も置いてあります。
お精霊様が盆棚の上に昇られた頃、先づ一服、お茶を差上げてから夕飯を供えます。十三日のご馳走は、白い御飯に唐茄子と隠玄豆の炊き合せです。オガラの箸をつけて、二つ用意した膳のうち、小さい方を、棚の下の四斗樽の間に置くのです。これは棚に昇る事の許されない無縁仏が食べるのだそうで、子供達は暗い棚の下で食事しなければならない仏達が可愛想で仕方ないのです
お盆の三日間は、親類の人々もお棚参りに来て賑やかです。
はるばると来られた仏様も、十五日にはもうお帰りで、その日には必ず手打うどんを作ります。木鉢に入れた粉をねり、蓙にくるんで踏んで伸して、細長くたたんでサクサクと切り、その切れ端を残しておいて、盆棚の牛と馬の背にかけて鞍とし、お帰りの準備を始めるのです。十五日の夜はなるべく遅く例の松明を燃やしながら、丁字路の所までお見送りをするのでした
十五、六日の二日間は農休日です。盆と正月と秋祭りと、たまに触れが出ての半日位の「おしめり正月」など、農家の休日は本当に少ないのです。何時も忙し気に働らいている家の者が、来客の相手をしながら家に居ると云う事が嬉しくて仕方のない子供達なのです。
又、二十四日は裏盆と云って、仏壇の中で留守番をしていた仏の為に、ご馳走を作って供えるのです。