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今川領の小前騒動について、「森泰樹著、杉並区史探訪」では、次のように記されております。
奥高家、今川範英(直房)は正保二年十月十七日、京に使して家康の霊に、秀吉より上位の東照大権現宮の称号を授与された功で、井草村、上鷺宮村、中村の計五百石が加増され、中村は今川氏の知行所となりました。
その頃の行政組織は
・江戸屋敷の今川家用人が、村役人を呼び出して、指図書を渡し、村役人より請書をとる。
・村役人は、十戸前後で構成されている組の、組頭を召集して、連絡する。
・組頭は責任もって、組中の小前百姓(名主、年寄、百姓代の三役以外の自作、小作の平百姓)に伝達する。
・小前からの願、訴え、借金、田畑の質入れ等は、必ず、組頭、村役人の添書が必要であった。
さて、天保七年(一八三六年)春、地頭今川家から
お勝手元不如意に付き、四月八日までに、ご用金百五拾両上納せよ。返済は、毎年拾八両づつ下げ渡す」と申し渡された村役人は、組頭を召集して、村人にそれを割当てました。
しかし今川家は、これまで文政十年(一八二七年)以来、度々ご用金を命じてきましたが、少しの返済もなく、また、高家と云う役目上、京都御使や、伊勢、日光への代参もありますが、その度に、中村など江戸廻り知行所四ヶ村に、夫金(ブキン)の割当があります。(安政元年頃で、京都御使-六六両、伊勢-四四両、日光-二二両)。
その上、天保二年、四、五年と三回の凶作で、農民達は上納する余裕など有るわけがありません。
四月四日夜、下井草村では、銀兵衛、源左衛門が中心となり、小前百姓達は、村役人にかくれて神戸坂の天祖神社に集り、「上納金免除か、さもなくば日延べして貰うように皆で直訴しよう」と相談が決まり、上井草村、上鷺宮村、中村にも同調するよう呼びかけがありました。
その呼かけに中村でも、月番と、次の月番の源左衛門と常松は、他の村々と同様に、村役人にかくれて、小前百姓だけの寄り合いを開き、下井草村に同調して、直訴することに决めたのです。
江戸時代は徒党を組んでの直訴は、天下の大罪でありました。でも、今までの経験から村役人に願い出ても埓があかず、又、天候異変で今年の凶作を予知した百姓達は、村々互に腕を組んで立ち上らなければ、村中飢え死する外無いと考え、四ヶ村の百姓達は決死の覚悟で直訴せざるを得なかったのでしょう。
四月六日
四ヶ村の小前百姓達は、神田橋外(三河町)の今川家に押し寄せ、ご用金免除の直訴をしました。驚いた今川家は、「後日、一ヶ村に付、三名づつ出頭せよ」と返事して、百姓たちを引き取らせました。
百姓たちは帰り道、高田馬場で、後日出頭する三名づつの代表者の選出を相談しましたが後々のお咎を恐れ、誰もなりてがありません。そこで仕方なく、クジ引きで代表十二名を決めました。中村の代表は、源八、七郎右衛門、新兵衛の三人でした。
四月七日
心細げに見守る家族や、村人たちに見送られて、代表十二名は今川家に出頭し、各村別に、生活が苦しい為、上納金調達が出来ないので御用金免除の直訴をした経過を詳しく述べましたが、「追って沙汰する」との事で一同は帰村しました。
四月十四日
勘定奉行内藤隼人生から呼出され(この事件は今川氏だけで処理出来ず、勘定奉行所が介人したものと推定される)、取調べを受けました。そして直訴関係者が召捕られたかどうか不明ですが、吟味を受けた十六名の中に、甚内と云う人が居ました。その四代目の子孫の方は「甚内さんが直訴に負け、逃げたが捕えられ、始めは観泉寺(都史蹟、今川家累代の墓有り)の柱に縛り付けられていましたが、自宅に屋敷牢が作られたので移され(村預りの一種)今川家の役人が馬で見廻りに来た。取調べは観泉寺の庭で行われ、その度毎に縄付きで連れてゆかれた…と、古老から聞いている」と語って居られる所を見ると、中村の関係者も多分同様に召捕えられたものと思われます。
天保七年は、前年冬の暖冬異変が、夏には低温多雨に変り、稲の出穂期は大風雨に襲われ、その上、九月末には大霜がおりて、農作物は全滅してしまいました。年貢率の低い天領である高円寺等九ヶ村でさえも、総人口一八六九人の中、九三%が飢人書上帳に飢餓人として書きあげている位の大凶作になってしまいました。まして私領である今川領は、ご用金の上納どころか、逆にご救米を借りなければ生存出来ない状態になってしまったのです。
そこで奉行所でも、四ヶ村の小前百姓たちか直訴した理由がよくわかったし、又、今川家からの裏面工作(一揆や直訴事件で、領主側に落度が有った場合、国替えや、全領地没収になる事も有った)も行われたらしく、「直訴などと言う大げさな事ではないと判明した」と言う事で、全員無罪放免になったのです。春四月、直訴してから半年経った九月の事でした。
勘定奉行書と今川家用人に提出したお下げ願いの歎願書(現在の警察への貰下願)には、四ヶ村の吟味中の小前百姓十六名と、各村総代、差添人四名が記され、中村では、百姓総代、新兵衛、重三郎、定平の名がしたためられています。
直訴、一揆は首尾よく目的が達成出来ても、主謀者は必ず礫獄門か、牢死等、悲惨な最後をとげるのが、「お上にたてつく者の見せしめ」としての慣例であっただけに、関係者やその家族は勿論のこと、村人達にとっても、どんなにか苦しい、せつない月日であったでしょう。
中村に生れた百姓の子として、遠い昔の仏達の冥福を、心から祈らずにはいられません。
この稿を書くにあたり、中村関係の人名など、ご多忙中にもかかわらずお調べくださいました森先生に心から御礼を申し上げます。
資料 杉並区史探訪(森奉樹著)