餅搗き

45 ~ 48 / 55ページ
 きれいに磨きあげ、水を張った糯米や黍が、四斗樽に幾つも用意され、掃き清められた台所の土間の真中には、空カマスの上に、大きな餅臼がずっしりと置いてあります。
 昨日まで土間の梁にぶら下っていた何本もの新巻きも、すっかり取りはずされ、トンボ口近には、薪の束も積みあげてあります。
 あげ搗きの重たい杵や、かけ搗きの小さい杵も、水を張った樽の中に用意されました。今夜は餅搗きなのです。
 日暮れと共に、大釜の湯が激り始めると、洗い上げた米を、四升人りのセイロに何段も積みあげます。手伝いのオモテのおじさん、新家のおばさん等皆集っているし、東京(旧市内)の子供達も見物にやって来ました。ちょうな(手斧)で削っただけの荒削りの粱に、100Wの裸電球も灯り、いよいよ米が蒸しあがると、一番下のセイロを外して、臼の中にその蒸し米を手早くパッと入れるのです。
 紺の印袢天に、紺股引、紺足袋に白い花緒の草履ばきで待ち構えていた五、六人の若い衆は、かけ搗き用の小さい杵を持ち、ぐるぐると臼を廻りながら米をこね始めます。一通りこねると「かけ搗き」です。四、五人で臼を囲み、足を踏ん張って、「トントントン」「それっ!」と勢よく杵を振りおろすのです。一人でも呼吸が合わないと危険な動作ですが、そこは馴れた若い衆です。実に調子良く、美味しそうな餅が臼の中で、あっちへ、こっちへ引っ張られ始めます。手拭を冠り、両端をきりきりねぢって結んでいるオモテのおじさんは何時もテアシ(手返し又は手あしらい)の役目で、杵に付いた餅をとったり、裏返したりして、最後の「あげ搗き」になるのです。力自慢の若い衆が、大きな杵を振り上げる度に、手早く餅を返したり、チョンチョンと水で濡したり…、それはもう良いタイミングでテアシをするのです。
 餅が搗き上ると、打ち枌を一杯敷きつめた「のし板」の上に運びます。餅を伸すのは、大体新家のおばさんの仕事で、餅の冷えないうちに、手際よくのし板に広げてゆきます。そして座敷に敷いた蓙の上に、出来上った餅を「パタン」とひっくり返すのです。
 囲炉裏にかけた五升炊きの鉄鍋には、昨日下拵えをしておいた餡が、プクンプクンと煮えています。それを焦さぬ様に、大きいしゃもぢでかき交ぜながら、その合間にお茶や、夜食の支度に忙しいのは母親です。
 八時も過ぎた頃、村の若い衆が「今晩は」「お目出度うござい……」と手伝いに来て呉れるのです。本当の野次馬で、娯楽の少ない頃の若者にとって、これは楽しいレクリエーションでもあったわけです。特に若い女の子の居る家には、この野次馬もたくさん集まり、賑やかな餅搗きが、更に一段と楽しくなります。興が乗り始めますと、そろそろ「餅搗き歌」もとび出して来ます。ぐるぐると餅をこねながら唱うのです。
 
 このやなァ
 このや館は 目出度い館
 奥しゃなァ
 奥しゃ三味弾く 次の間じゃ語る
 お台所なァ
 お台所じゃ 餅を搗いて祝う。
 目出度なァ
 日出度目出度が三つ重なれば
 庭にゃなァ
 庭にゃ鶴亀 五葉の松
 枝もなァ
 枝も栄えりゃ 木も繁る。
 富士のなァ
 富士の裾野に チラチラ見える
 あれはなァ
 あれはおどしゃか 白鷺鳥か
 鷺じゃなァ
 鷺じゃござらぬ おどしゃでござる。
  おどしゃ とは、富士講の登山者とか、富士
  衝道のことを云います。
 お江戸今朝出て 板橋越えて
 戸田の渡し場を 朝舟で越えて
 蕨昼食 桶川泊り
 同じはたごなら 桶川およし
 駒をいさめて 鴻の巣までも。
 本町二丁目の 糸屋の娘
 姉にゃ少しの 望みも無いが
 妹慾しさに ごりょ願かける
 伊勢に七度び 熊野に三度
 芝の愛宕に 月まいり。
 
 若々しい歌声が、凍てついた星空に吸い込まれて行くのです。
 牛の舌べろ位あるぢざい餅や、からみ餅で一休みした後は、そろそろ餅を切り始めなければなりません。黍や、もろこしは白米と違って、すぐ硬くなってしまうのです。真夜中だと云うのに、姉さん冠りの女達は、生の大根をそれぞれ横に置いて餠を切り始めます。
餅の粘りで包丁の動きが鈍くなると、傍の生大根を切っては、包丁を湿めらせるのです。大振りの餅を幾つもの糀ブタ(味噌を作る時、糀を拵える為に、蒸した米や、麦を入れてねかせて置く木の箱)に並べ入れたりして整理してゆきます。餅の切れ端は、小さい賽の目に切ったり、コツコツと薄い小口切りにします。黍餅はちょうど金色のコハゼのように見えるのです。これらは日蔭でよく乾燥させておいて、ホーロクで煎り、ひな祭りのあられや、お茶受けにします。
 夜も更けて眠気に襲われた子供達は、大低炬燵の中でうたゝ寝をしてしまいます。
 もうろうとした頭の中に一晩中、餅搗く音や、賑やかな笑い声が響いているのです。