明治中頃の小学生-母の母校、高井戸小学校への便り-

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 高井戸小学校の皆さん、こんにちは。
知らないおばさんが急にお便りしてびっくりしたでしょう。
 実はこの間、九十才で亡くなった私の母は、明治十六年に、久我山二丁目の大熊と云う家に生れ、今から八十年位前に、高井戸小学校に通学していたのです。母は折に触れては子供の頃の思い出を私共に話してくれました。そこで忘れないうちに皆さんにもお話しておこうと思うのです。
 先ず、その頃の小学生は、どんな服装で通学していたのでしょうか?男の子も、女の子も、盲縞と云って黒っぽい木棉の筒袖の着物でした。女の子はその上に和服の残り布で作って頂いた前垂を掛ていました。袴を着けるのは儀式の時だけで、履かない子もたくさん居たようです。それに女の子は毎朝のように、お家の人から癖直し(日本髪が結い易い様に、熱い布で髪の毛を真直に伸ばすこと)をして頂いてから、可愛らしいおたばこぼんに結ってもらいました。
 そして、今のノートや鉛筆の役目をする石盤と石筆、教科書を風呂敷に包み、手習いの草紙を提げて通学したのです。
 気候の良い時はいゝのですが、雪の朝などは大変です。勿論、レインコー卜も、長靴もありません。足駄と云って背の高い下駄を履いて通学するのですが、少し歩くと足駄の歯に雪がつまって歩けなくなってしまうのです。仕方ないので、足駄を脱ぎ、素足になって雪の中を駆けて登校するのだそうです。その頃の通学区域はとても広く、近隣六ヶ村から通学していたと云います。例えば、高井戸地区は勿論ですが、宮前、久我山、松庵などからです。松庵小から、高井戸小まで、どの位の道のりが有るでしょうね。随分冷たくて、つらかった事でしょう。でも、そうして昔の子供達は、知らない間に、我慢強い、根性の有る子に育っていったのでしょう。
 学校の帰り道は、誰も通らない赤土の切り通しの道をトボトボ帰るのですが、今でも烏山と云う名がある位に、鴉がたくさんいて、頭上すれすれにギャアギャア啼きながら飛ぶので、とても恐ろしかったそうです。
 学校の勉強は、読み、書き、そろばん、お習字もありました。今のように新しい半紙で練習するのではなく、反古帳と云って使用済みの半紙を綴じて、それで練習するのです。全部の紙が真黒になっても捨てないで、真黒い上に字を書くのです。すると墨が乾くまでの間は、自分の筆跡が見えるのだそうです。(最近のテレビドラマで、寺子屋の子供が、一、二字書いては白い半紙を破いたり、丸めたりしますが、あんなもったいない事を、昔の子供は決してしなかったと云います。)
 筆も一軒しかないよろず屋で買いました。椎の実筆と云って、穂先が椎の実の様に、ずんぐりした筆で、五厘で二本買えたそうです。
 体操の時間もあって、木で作った亜鈴を持っての体操です。
 その頃の国語の教科書は、国語の勉強しながら理科や、社会科、算数の勉強をする教科書でした。母の生家の蔵の中に、和綴じの教科書がしまってありました。これは母の弟のものでしたが、多分母も同じ様な教科書で勉強したのだろうと思いますので書いて見ましょう。
 
 尋常小学 新體読本 巻五
 あはびハ、一枚のからにて身をおほひ、あらなミの寄する海中の岩間にすみて、かたつぶりのはふが如く、そろそろと移り行くなり。肉ハ煮ても食ひ、生にても食へど、又干あはびとて、其の肉をむしてかわかしたるものあり。
 
 これは理科の勉強のようですね。
      *    *     
 兄の義家、清原武衡等をうちける時、敵の勢盛んにして志は志はやぶれけるよし京都に聞江たり。
義光之を聞きて、安からぬことに思ひいとまをこひておもむきたすけんとしけると、朝廷其のねがひをゆるしたまはざりしかバ、心ならずも官をやめて兄のもとにはせゆきたり。
 
 随分難しい文章ですね。
 それから病気の時は、それはそれは大変でした。その頃、歯医者さんも、鉄道の駅も、中野迄行かないとありません。母は小さい頃、激しい歯痛の為に、顎の方まで穴があいてしまった事がありましたが、そんなに苦しい時でも、お祖母さんに連れられて、泣き泣き歩いて中野まで治療に通ったのだそうです。
 その頃の子供達は
「勉強は学校でするもの」
「家では働らくこと」
と云われ、家に帰って机に向ったりしていると、「怠け者」と云って叱られるのです。何故かしら不思議に思うでしょうけれど、どの家も農家なので、畑仕事が忙しいからなのです。ですから少し大きい子は、学佼から帰るとすぐに子守、お三時の支度、風呂焚き、米磨ぎや、男の子は畑の手伝いもします。とても勉強好きな母の弟は、畑で草取りしながらかくれて漢字の勉強をしていたそうです。今の高井戸小の皆さんには、とても想像出来ないでしょう。少しの時間でも有効に使って勉強した母の弟は、今の渋谷区の方で、小学校の校長先生になりました。
 その頃の高井戸小学校のあたりは、野も山も、自然が一ぱいでした。神田川の清流からは、鮒や鰻がたくさんとれたし、螢もとんでいたし、大空には金やんまがたくさん飛びかっていました。秋には、ちょっと雑木林に入ると、きのこや、小粒だけれど甘い芝栗がどっさり採れたそうです。
 十五才も年上の母の兄の頃には、まだ高井戸小が無かったので、寺小屋に行ったそうです。勿論備えつけの机等有りませんから、自分の机を背負って行ったそうです。冬の朝は木の根っ子も背負って行きました。何に使うかわかりますか?それを燃して、冷えた手足を暖めるのです。高井戸小の皆さんは、ガスストーブかしら…。
 もっと色々聞いていたつもりでしたが、思い出せません。テープにでも採っておけばよかったですね。
 では皆さん、
昔の子供達に負けないように、元気な根性の有る子供に育ってください。
                      さようなら
  昭和四十八年五月