農村であった頃

1 ~ 2 / 47ページ

 練馬区中村も、昭和初期までは、広々とひろがる田畑のあちこちに、高い屋敷森に囲まれた家が点在する農村でした。この屋敷森は、季節風を防ぐ爲に、杉、﨔、竹等が、家の北西に茂り、この風景は、明治期とそれ程変わっておりませんでした。

 村の北方には、西から東に千川上水が流れていました。減水時の上水には、ウグイの群が盛り上る様に泳ぎ、近くの子供達は、釘を打ち付けた手製の道具で、鰻とりにも熱中したと云います。(近くで生まれた古老の話(M.四一年生れ))

 この上水から頂いた細い流れ(子供たちが跳び越えられる位の)が中村用水で、その流域は水田、土橋の袂には、五ケ所程、流【洗】い場が出来ており、大根を洗ったり、農具を洗ったりしていました。田にし、しじみ、だぼはぜ、小さなえび、かわにな等がすみ、夏には平家螢が飛び交っていました。

 その他、村の大部分は畑、雑木林、茅山でした。当時、農家の母屋は、茅葺きが多かったので、茅山も大切な資源でしたが、屋根替えの時は、村の茅だけではとても足りませんので、不足分は、板橋の蓮根から求め、村人達は互に手間借りをして、荷馬車や、手車で運びました。

 村で一番広い雑木林は、城山(じょうやま)にあり、昼間でも「追いはぎ」が出るからと、子供達が近づかない位、淋しい、深い林でした。農閑期になると、人々は手車や、背負い篭で、落葉掃きに行き、燃料にしたり、その灰は肥料に、前栽物の温床(オンドコ)を造る時にも用いました。城山は、現在の中村西小学校の辺りです。

 農作物は、米、麦、栗、きび、野菜の生産が盛んで、特に練馬大根は全国的にも有名でしたが、病虫害の大発生と、戰後の耕地不足の爲、すっかり姿を消してしまいました。茶や味噌も自家用を製造していましたし、大正前期頃迄は、藍も作っていました。