『江戸(えど)傍(ぼう)近図(きんず)』(1794年=寛政6年)貫井池は「溜(ため)井(い) 三町余(=約3万平方メートル)」との記載⇒季節により水量が大きく変化していた可能性も[※1856(安政2)年図では単なる〝低湿地〟として描かれている?]
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大正期(1918年=大正7年)…「七町歩」(=約6万9千平方メートル)
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昭和初期…約1反歩(=992平方メートル)※1935(昭和10)年頃を最後に、ほぼ池は消滅し、その後池の大半は湿地となる
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1956(昭和31)年には中央に小川が流れるのみ、1958(昭和33)年頃に完全に埋め立てられ、工場や住宅地に