「円光院の山号を『南池山』と称したように、現在の西練馬電話局周辺は大きな底なしの沼(※筆者注:貫井池のこと)であった。周辺は畑で、銃を持った人らが射撃の練習場とした。少し離れた石神井川の現在のガスタンクあたりではカモ猟が盛んに行われていた。
ところが終戦で成増飛行場はグラントハイツとなり朝霞、所沢に米軍の進駐で、大量のゴミのすてどころになったのがこの沼であった。毎日数十台のゴミがはこばれて底無しの沼は次第にゴミの山となった。
そこへ韓国と朝鮮で戦争がはじまり、鉄ブームがおこった。大量の鉄クズがすてられているゴミの山は朝から夕方まで掘る人で黒山の人だかりとなった。その人々目当に屋台が出る、鉄クズ買いが掘り出された鉄をその場で買取るのでその場で現金になる。正に一寸したゴールドラッシュの騒ぎとなった。
都内の工場が貫井に移転がはじまったのは、敵機の空襲がはげしくなったからで工場の移転は続いた。工進精工所、大泉製作所、特殊バネ、特殊精工、日絆薬品工業、東亜化学工業、富士平工業、竹内化学工業、脇野製綿所、ヒノデバルブ製作所等々数十社となった。
練馬産業連合会の第六班会が結成されたが、練馬最大の工場地帯が突然貫井の畑の真中にぞくぞく出現した。
区では旭町を工場地帯、貫井町と小竹町を準工業地帯に指定、工場誘致をしたのだった。戦前戦後電力事情が悪く、準工場地帯となることで電力を獲得出来て活発な生産活動をつづけることが実現して区財政への助けとなった」
(『ふるさと練馬秘話』鳥居義太郎:1986[昭和61]年・練馬経済新聞社刊)
「(70年以上前の貫井中学校校庭の)南側には川が流れていて、きれいな水で、エビなどを取って食べたものです。南側は低いので、雨が降るとすぐにあふれて腰のあたりまで水につかりました。(中略)NTT電話局の後側(※筆者注:貫井池の西端)にゴミ捨て場がありました。ゴミ捨てを始めてから朝鮮動乱があったため空き缶など金物が売れ、拾って小遣いを稼いだことがあります。ゴミ山で夜は石油ランプをつけて掘っていた人もいました。ここで青年会の人が豚を飼っていたことも覚えています」
(『わが町貫井を知ろう第二弾』<昔の話を聞く会>1998[平成10]年3月14日・練馬第二小学校会議室にて・小林實氏談話)
「池付近にあった水天宮(=水神社)は明治期に円光院脇に移された」(「文政九年」[=1826年]銘碑あり)。
「貫井池ではザリガニや小魚がよく釣れた。特にザリガニは多くて、採り始めるとすぐバケツが一杯になった」
「終戦直後、貫井池は成増飛行場(現・光が丘団地)の金属クズ(鉄・銅など)の廃棄場になった。いちはやくそれに目をつけて回収し、売却した人々は大富豪になった」
「貫井池跡は、成増飛行場跡に出来た『グラントハイツ』(駐留米軍家族住宅)のゴミ捨て場としても利用されたが、そこでスプーンやフォークなどを拾って小遣い稼ぎをする子たちについては(近隣の学校の)PTAで問題になったこともあった」
「戦後、池の跡の一部は一時期牧場となった」
「大正期以降は大半が水田となった」
「貫井池跡の周辺一帯は、人家も少なかったため、昭和30年代~50年頃迄『準工業地帯』に指定され、『不二越精工』『特殊精工』『特殊バネ』『東亜化学』『武田薬品東京工場』(東京工場試験農園あり)『ニチバン東京工場』(=現在の練馬第三小学校敷地に存在)などの工場が建ち並んだ」
「1958(昭和33)年、池跡北側では㈱酒悦(『福神漬』を創始したとされる会社)練馬工場が操業を開始、周辺の住宅化が進んだため、1974(昭和49)年に茨城県潮来へ移転。跡地は貫井中学校敷地となった(校庭南側を拡大)」
「昭和40年代前半頃、出頭跡の東南側の斜面では、子供たちがよくチリ取りや段ボールを使ってソリ遊びをしていた。あのあたりの斜面の風景は今もなぜかあまり変わっていない(※現在は小公園)」
「西武線のあるあたりからは、昭和30年代まで北に向けて小さな川も流れていた(筆者注:千川上水からの漏水か?)。最後の頃は完全にドブ川で、その後はコンクリートのフタもされた」
「旧・飯田百貨店側からの流れは1968(昭和43)年頃に暗渠になった。細長いコンクリートのフタが敷き詰められており、上を歩くとバタバタ音がした」
「池跡は一時、一般のゴミや一部粗大ゴミの捨て場にもなっていた。ファミリーランドプール建設の際、地面を掘り返した時には大量のゴミが出てきた。ビニール袋やプラスチックのカケラなどが結構たくさんあったのを覚えている」
「貫井池の東側の坂上は「重殿山」(じゅうどのやま)と呼ばれていた(※水に関係ある場所に付く地名とされる)」
「池跡に建っている神社は、よくネットなどで『池跡に残った弁財天』などと書かれているが、あれは『秋葉神社』なので間違い。以前ここにあった飯田百貨店(その後移転、現・コモティイイダ)の経営者が、「火伏せの神」として1969(昭和44)年に祀ったもの」
☆現在、練馬第二小学校資料室に貫井池復元模型(教諭および郷土研究クラブ児童による共同制作)あり