「(大正末頃)今の貫井中学校の南方にあった貫井の池から、(円光院の脇に向かって)湧き水が流れて来ていたのです。ウグイやタナゴが泳いでおり、美しい水で、付近の人が飲み水にしたほどです。水天宮の前に洗い場があって、ここでダイコンなどを洗っていました。(中略)私たちはこれを『かんぴょう川』と呼んでいました」(『ねりま区報・古老が語るねりまのむかし・27』<西谷隆喜氏:貫井町在住・1918年=大正7年生まれ>談話)
「貫井池から流れ出したあたり(貫井中学校東側)の貫東川には昭和20年代、丸木橋が架かっていたこともあった」
「昭和30~40年代、酒悦の工場からは着色料の混じった廃液が大量に流れ出ていて、夕方の貫井川はいつも赤色や青色に染まっていた」
「円光院脇の水神社の南からは貫井川の分流があった。かつては、石神井川との途中に水車も存在していた」
「円光院から現・目白通りを隔てて向かい側(貫東川の東側)には、かって同院にちなむ『子の権現』があり、江戸期の絵図にも記載されているが、遺構の一部は昭和40年代後半まで残っていた」
西谷隆喜氏:貫井町在住・1918年=大正7年生まれ>