解説

検地帳画像1
検地帳画像2

 一般に検地帳の正本は、厳密な手続きのうえ、二部作成され、一部は幕府の勘定所へ納め、一部は村方へ下げ渡すのが定式であった。
 この検地帳は、いわゆる元禄の地方(ぢかた)直し、すなわち元禄三(一六九〇)年の検地の結果を田無村へ下げ渡された正本である。また、本文に「田無村御検地水帳七册」とみえているように、元禄の田無村検地帳は、七册に編成されていて、ここに採録したのはそのうちの第七册目である。第一册から第六册までは、畑地(当時田無村には田地はなかった。)の名寄(なよせ)であると認められるが、現状は虫蝕が甚だしく、修復も困難である。
 第七册目すなわちここに採録したのは、屋敷分および全体の総計である「寄」(よせ)の部分である。第七册目は、奥書に「墨付蓋紙共拾五枚、摺印五ツ」とあるように実質記述部分が一三枚に表紙がつけられており、今度の修理でほぼ完型にもどすことができた。
 こうして、第一册から第六册までの内容、つまり畑地の所在、所有関係などを調査できないのは、村落史(市史)研究のうえで大きな打撃である。が、そうはいうものの、この第七册だけでも復原できたことは、まことに喜ばしいことであった。というのは、第一に屋敷地については、明治初年のものと推定される下げ札(貼紙)が逐一ほどこされ、明治時代に決定された地番が記入され、また、所有者の変更についても同様である。これによって、おそらく街道をはさんだ屋敷地割を復原することは可能であろう。屋敷数は、八一か所である。第二に「寄」の部分については、概括的には、正保武蔵田園簿、元禄郷帳などとの比較が可能であり、細部においては、「上畑」、「中畑」、「下畑」、「下々畑」、「野畑」、「屋敷」などの「高」(たか)反別の割合、「斗代」(とだい)、あるいは、「野高」、「藪銭」、「野銭」、寺社の「除地」(じょち)や「見捨場」の状況、さらに、検地当事者である奉行、手代、案内の長百姓の氏名(百姓は名だけ)、その他代官の氏名をも知ることができる。
 前記のように村方に渡された検地帳は、当然に、長百姓のなかでも名主が全責任をもって管理してきたものであり、かりに異常があれば、一家断罪、財産没収などの極刑に処せられるほどのものであって、文字通り身を堵して管守してきたものである。田無村元禄検地帳はその年代の古さからみて、当初は輪番名主が継承し、江戸時代の中期以降定番名主がひきつぎ、さらに、右の下げ札の状況からみても、戸長役場、町役場に伝えられ、現代にいたったものと考えられる。
 近代の土地台帳が成立する以前の戸長役場時代までは、唯一の基本帳簿であり、実用性をもっていたことは、右の例の示す通りである。戸長役場時代からすでに一〇〇年、実務上の使用価値はなくなったとはいえ、史料としては、ますます貴重な存在といわなければならない。こうした継承過程からみても、「世継ぎ」の文書として、将来ともに大切にされなければならないわけである。
 検地が厳密な手続きで行われたということは、「地方凡例録」(ぢかたはんれいろく)などのいわゆる「地方書」の説くところであるが、この検地帳の表記の上でも、そのことが認められる。たとえば摺印というのは、現在でも契約書など重要文書に施されている割印である。また、さきに引用した、「墨付蓋紙共拾五枚」云々の奥書も、この検地帳の厳正さを示した一例といえよう。
田無市立中央図書館編『元禄三年田無村検地帳-田無市史々料-』