下野谷遺跡(したのやいせき)は、今から5~4千年前の縄文時代中期の南関東最大級の集落遺跡で、西東京市東伏見に位置しています。
石神井川を南にのぞむ高台にあり、浅い谷を挟んで東西2つに分かれる台地にそれぞれ「東集落」「西集落」があります。
集落は、墓域のある広場を竪穴式住居や掘立柱建物が囲むように建つ「環状集落」といった縄文時代に典型的な形をしており、それが2つ隣接して並ぶ「双環状集落」の形態や集落規模の大きさ、存続期間の長さから、石神井川流域の拠点となる集落であったと考えられています。
このような集落が都市部にほぼ全域残されていることは非常に珍しいことから平成27年3月に国史跡に指定されました。
遺跡からは、大量の土器や土製品、石器などの出土品が発見されています。
土器は、鍋や水がめ、盛り鉢などの容器に使われたほか、住居の床に埋設され、炉の灰をためたりする場として使用されたり、墓の中に埋葬されたりもしました。
縄文土器は、形態や文様のつけ方などに時代や地域ごとの一定の決まりごとがあり、いくつかのタイプに分類されます。それを「型式」と呼び、それぞれ、その型式が最初に認定された遺跡名を冠した型式名がつけられています。
下野谷遺跡からは主に「勝坂(かつさか)式」「加曽利(かそり)E式」「連弧文(れんこもん)系」と呼ばれる関東地方の縄文時代中期後半に出土する土器のほか、甲信越地方に分布の中心がある「曽利(そり)式」と呼ばれる土器も出土しています。こういった他地域の出自をもつ土器の要素がミックスされたような土器も出土していることから、人や情報が移動する広域のネットワークの結節点のような役割も持つ遺跡だったことが想定できます。
縄文土器の独特な撚りあわされた縄(縄文原体:じょうもんげんたい)をころがす模様や、特に勝坂式にみられる粘土紐をいくつも張り付けた複雑で躍動的な形や模様には縄文人の芸術的な感性を見ることができます。
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