一 郷土のはじまり

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 県立房総風士記の丘(印旛郡栄町)には、印旛沼から工事中に発見されたナウマンゾウの化石を展示している。このナウマンゾウの化石は本例のみならず、広く日本各地から出土しており、有名なわりにはほとんど日本で発見されていないマンモスにかわって、古代象の主流を占めていたことがわかっている。その形はマンモスを、ひとまわり小さくしたようなものであって、温帯の草原に生息していたとされている。つまり、亜寒帯のマンモスとは住み分けていたといってよい。マンモスにしろ、ナウマンゾウにしろ、彼らは約一万年前までは確実に生存し、また、これらの動物を食料としていた人類がいたことも明らかになっている。先土器(せんどき)時代とよばれる時代のことである。
 先土器時代はまた、火山活動の活発な時期であった。当町の西方の台地上にはこの頃降りつもった火山灰が厚い層をなしており、関東ローム層とよばれている(写真1)。その厚さは大体二~三メートルといったところであり、東京湾岸の地方と比較すると薄い。層の年代は、放射性炭素年代測定法(C14年代測定法)や、フィッショントラック法(核分裂による飛跡を算定する年代測定法)によって、およそ千年単位の測定値が示されており、それぞれ、上から立川ローム層、武蔵野ローム層に大別されている。上位の立川ローム層については、色調や構成物質によりさらにこまかく分類され、鍵(かぎ)層によって各地と層の比較がなされている。鍵層とは、広範囲かつ、短期間に形成された特徴のある層と定義されるが、他地域との対比に有効である。立川ローム層中の姶良(あいら)丹沢火山灰層(ATと略称)などはそのよい一例であろう。

写真1 小西台崖断面
 
 さて、この数メートルほどのローム層中に、約五万年ほどの時間が凝縮されている。そして、最近では千葉県の各地でローム層から多くの石器が出土している。この石器を使用した人類は新人(ホモサピエンス)と呼ばれ、より原始的な旧人と区別されており、彼らこそ当町における最初の歴史の主人公である。
 昭和五十六年、土気駅北東約二キロメートルほどの地で、先土器時代の遺跡の調査が行われた。遺跡の名称は葭(よし)山遺跡といって、谷田を見おろす低い台地上に立地している。遺物はⅤ層~Ⅶ層にわたって出土しているが、特にⅦ層の遺物は、磨製石斧(ませいせきふ)を始めとして注目すべきものがある。また、この層の遺物はこの付近でも未だに調査例がなく、その意味でも特記してよいであろう。ローム層を対象とした先土器時代の調査は、今日では結構行われるようになってきたが、山武郡内ではまだまだ一般的とはいいがたい。また、たとえ調査が行われた場合でも、ローム層深くの確認例はきわめて少いのである。この葭山遺跡の場合などは、その幸運な一例といってよいのだが、これからの調査いかんではさらに古い層から遺物が出土することは十分にあろう。千葉県では、現在までのところ、市原市の草刈遺跡が最も古く、立川ローム最下層のⅧ層中に文化層が確認されている。おそらく、武蔵野ローム層が調査の対象となるのもそう遠いことではないだろう。
 日本では、約三万年以前にさかのぼる文化層の存在については、最近まで否定的な考え方が主流を占めていた。しかし、宮城県座散乱木(ざざらぎ)遺跡の発掘を契機として、大陸の中石器時代に比定される石器群の存在が明らかになりつつある。これは、フィッショントラック法や、熱ルミネッセンス法による年代測定によって、約七万年にもさかのぼる数値が示されている。「石器」の層位的変遷や、石材の選択性など、その内容には肯定すべき点が認められるが、一方、大陸で典型的な石核類に乏しいことも指摘されている。ともあれ、現在では、日本における前期旧石器の存在を認めてゆく傾向にあるといってよい。このことは、同時に、粗雑な道具を用いた人間(旧人の段階)が存在したことを示しているのである。
 ところで、先土器時代は、最終氷期(ヴュルム氷期)に相当するので、海水面は大きく低下し、従来の沿岸部を大幅に陸化させた。この陸地面はその後の海進・海退によって、平野の下に、あるいは、海の底に隠れてしまっているので、発見することは容易ではない。かつては海や川の近くの開けた場所であるので、むしろこのような条件の地こそ当時の遺跡が多く遺されているのではないだろうか。九十九里沿岸の景観も、万年単位でみた場合、その変貌ぶりには全く驚くべきものがある。当町の歴史もこのような地形変化に対応してさらに古く遡る可能性のあることを考えておくべきではないだろうか。