既に、当町の周辺の歴史が三万年以前にさかのぼるであろうということは述べた。それゆえ、将来、文化層が確認される可能性の高い武蔵野ローム層堆積期(三万年~八万年前)の頃からみてゆきたい。約五万年前の気候は、最終氷河期における二大寒冷期のひとつにあげられている。日本アルプスなどの高い山脈には、氷河が形成され、千葉県の気候も、現在の北海道にほぼ近い状況であったと推定されるほどである。海水面は低下し、海岸線は九十九里浜の沖合約十キロメートルも先にあったと考えられているので、さしずめ、町や村の十や二十の土地が新しくできたことになろう。参考までに九十九里の海底の様子を知る良い資料があるので、掲げておくことにする。一見平坦な砂浜の下が起伏にとんでいることに驚くであろう(図1)。このような環境であるから、動植物についても、当然、寒冷な気候に適する種類のものが生息していたはずだが、何分にもこの時期の資料は乏しいのでよくわからないのである。おそらく、二万年前の再度の寒冷期の頃とそれほど変わらないではあろうが。
図1 九十九里浜沖岩盤等深線図
(『九十九里浜土質調査工事報告書』横浜調査設計事務所他)
その後、約二万五〇〇〇年前までの間は、若干温暖期に向い、それとともに、海水準も上昇したようである。しかし、それでも、現在の東北地方、それも、岩手県あたりの気候であったと予想されている。
ところが、以後、気候は徐々に寒冷化し、約二万年前の頃になると、最終氷河期の最後の寒冷期を迎えるようになる。海は後退し、前回以上に広い平野が沿岸部に出現した。現在の東京湾もほとんど陸地となってしまったと考えられているので、その程度がわかるであろう。気温にして、大体七~八度、海面は約百メートルも低下したといわれるほどである。
当時の植生を知る資料としては、たとえば、富里町東内野遺跡でトウヒが多量に産出しているが、まとまった資料としては、東京都や茨城県等に認められる。そこでは、チョウセンゴヨウ、トウヒ、モミ、カラマツ等が産出し、冷温帯~亜寒帯性の針葉樹林が分布していたことを示している(図2・写真2)。現在も、房総の清澄山周辺にはツガの群生がみられるが、これなどは、この当時の植生のなごりであろうとする意見がある。
図2 先土器時代の動植物(動物については『日本の考古学Ⅰ』先土器時代より転載)
写真2 北海道の風景 (北海道東部)
このような気候変化は当然、動物相(どうぶつそう)にも大きな影響を与えている。本県ではこの時代の良い産出例がないので、長野県野尻湖の場合をみてみよう。そこでは、ナウマンゾウ、オオツノジカ、ニホンジカ、ヒグマ、ハタネズミ、ヒシクイなどがみられるが、中心となるものはナウマンゾウであり(図2)、千葉県の印旛沼でもずっと古い十万年以上も前の地層からその頭骨が発見されている。野尻湖の場合は、年代が、一万六千年~四万一千年の範囲にあって、気候的に多少の温暖期にあたっているので、前記のような構成を示したのであろう。一方、ほぼ同じ年代であるが、岩手県花泉の場合は、ヘラジカ、ハナイズミモリウシ、キンリュウオオツノジカなど、寒帯草原性の動物相を示しており、おそらく極寒期にはこのような寒帯の動物達が、さらに南下したのではないだろうか(図2)。本州ではマンモスの骨は未だ発見されていないが、前記の動物と一緒に渡ってきた可能性が高いと推定されている。しかし、約一万年前後を境として、大形の哺乳類は姿を消し、動物相は大きく変化し、今日に至っているのである。