三 先土器時代とその生活

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 人類の進化の歴史は、一般に、原人(げんじん)―旧人(きゅうじん)―新人(しんじん)という順序で理解されている。日本の先土器時代人は、前に挙げた最近の成果からすれば、旧人の存在が考えられてよいのだが、確実な人骨は未だ発見されていない。しかし、三万年以降の新人の段階では、遺跡は日本全国で発見されており、また、人骨の出土例も僅かながら各地で認められる。しかし、沖縄県の港川例等を除けば、いずれも完全なものはなく、また、年代決定のきめてに欠けている場合がほとんどである。縄文時代においても、その遺存人骨の多くは貝塚から得ているのであり、今後、旧海辺の貝塚や、あるいは、食べた動物たちの骨塚といった類の遺跡が調査されれば、良好な資料が出土するのではないだろうか。俗に日本人のことを大和民族といったりするが、その場合は明らかに弥生時代以降の日本人のことをさしている。そうすると、弥生時代以前の日本人は現在の日本人の直接の祖先ではないということになる。つまり、縄文人は原住民であって、その人々はアイヌ人であったとする考え方である。今日ではこのようなことを真面目にいう人は少ないと思うが、人種については未だに誤解が多いことも事実である。この点は弥生時代の章でもふれてあるが、要するに、縄文人が弥生人になったとする考え方が、現在では支配的なのである。また、先土器時代人が縄文人の直接の祖先であったとする考え方も同様である。人は、何万年も前の人々は猿かゴリラのように思われるかもしれない。しかし、たとえば、彼らが身なりを整え、街に出て、雑踏の中を歩いていたとしたら、きっと多くの人は気づかないのではないだろうか。その程度の違いなのである。また脳の容量も現代人とほとんど変わらないといってよい。つまり、中身はそれほど変わらない一方、その能力や知識に大きな開きがあるのは、まさに教育の力といってもよいであろう。単に教育といった場合、私達は学校教育一般を考えるが、それは教育方法のひとつであって、教育の総てではない。ものを考え、つくり、創造する、基本的な素質を人類が獲得し、その成果を次代に伝達する能力は、教育の基本的条件である。何万年という長い年月の間に、人類はすこしづつ、本当にすこしづつその条件を整えてきたということになる。その具体的な歩みを次にみてみよう。
 人間は他の動物と比べて、武器となるような特別な身体的特徴を備えていない。森林で木の実や果実を採集している間はよいのだが、二本足で草原の獣を食糧とするには、木や骨、あるいは、石という武器を用いねばならない。それゆえ、道具の歴史を追うことが、この時代の生活を考えることになるわけである。既に、ヨーロッパなどでは五〇万年以上も前にさかのぼって道具の移り変わりによる文化の編年案(へんねんあん)がみられるが、日本では、未だ研究の歴史が浅いためか、大陸と比較できる程に進んでいないというのが現状である。しかし、約三万年以後の文化の流れについては、近年の資料の増加により、その内容がかなり明らかになっており、千葉県でも県内出土の資料による編年案がみられる。ここに掲げた表1は昭和五十九年時のものである。そこでは石器の図が簡略なので、実際に出土したものを別に載せておこう(図3)。先に、第一節において、小西台のローム層断面の写真をとりあげたが、表における層位と対比してみればどの層でどんな石器が使われていたか理解できるだろう。この道具の移り変わりで注目すべきことは、器種の変遷である。古い時代ほど種類が少なく単純で、新しくなるに従い種類がふえ、また、精巧になってゆく。これは機能の分化というようにとることができよう。つまり、古い時代にはひとつのもので、あるいは、打ちかいて作った剝片を多少加工して幅広い用途に使っていたものが、徐々に目的に応じて道具の種類をふやしていったということである。先土器時代における道具とその移り変わりは、彼らの生活の実態を総て指し示してくれているとはいえない。しかし現在の私達にとって、彼らの社会や文化を追求する術は他にないので、以下、多分に推測を加えながら考えてみることにしよう。
表1 石器の移り変わり
表1 石器の移り変わり
図3 先土器時代の石器と移行期の土器
図3 先土器時代の石器と移行期の土器

 先土器時代の狩猟具というと、多くの人々は弓矢を想像することであろう。しかし、ナイフ型石器、あるいは、尖頭器(せんとうき)といった主要な石器は、通常、槍先と考えられている。槍による猟は弓矢と違って、獲物に近づかなければならない。ところが、既に紹介したように、この時代の動物は一般に大型であり、それらを仕止めるにはその武器からいって、単独では全く危険である。おそらく、対象となった獣の性質をよく知りぬいた上で、集団による計画的な狩猟が行われていたのだろう。ところで、後のムラにあたる、この時代の集団とはどんなものであったのだろうか。普通、発掘調査で得られる資料といえば、石器、及び、石器をつくる際の残りくずや、礫群といったところで、生活に関わった他の道具がみつかることはきわめてまれなのである。それゆえ、彼らの集団を把握する場合、遺物の出土状況から追求することが普通に行われている。先土器時代の遺跡では、大体、三~四メートルの範囲で、遺物が出土している。図4は千葉市板倉町遺跡の例であり、本町と距離的に近く、また、既に報告されていることもあり、具体例としてとりあげたものである。遺物は、狭い台地上の二か所にまとまって出土している。こまかい点はそれぞれひとつの遺物を示しており、種類別、石質別の出土状況、及び、接合状況をみてとることができる。詳しい分析は避けるが、この遺物のまとまりから次のことがいえそうである。狩人達が、この地に簡単なキャンプを設け、消耗した石器を補充しながら、僅かの期間を過したのち、去っていった。

図4 千葉市板倉町遺跡遺物出土状況(1/80)
(『千葉市板倉町遺跡』(財)千葉県文化財センター)
 
 もちろん、遺跡の性質によっては、製品が多く出土する場合もあるし、石器以外に炭化物がまとまってみつかる場合もままある。しかし、これら一連の調査においても、石器製作の技術がその移り変わりは追求できたとしても、具体的な生活の痕跡を把えるには至っていないのである。その意味で、近年、隣の東金市道庭遺跡(どうにわいせき)でみつかった先土器時代の浅い楕円形の落ちこみ(図5)は注目すべきものである。それは、径約三メートル、壁の内側に小さな穴がほぼ等間隔にめぐり、遺物はその北側において確認されている。日本ではこのような例は全く少なく、その性格をどう理解してよいかためらうのだが、諸外国の例を参考として考えてみると、どうも簡単な住居の跡と推測されよう。小さな穴は柱の跡と思われ、それを中央で組んで葉か動物の皮などをはっただけのものではなかっただろうか。そして、中は狭いので、そのすぐ外側で石器を作っていたと予想されよう。先土器時代は狩猟中心の時代であったと考えられている。もちろん、春先から秋までは木の実や果実なども採集していたと思われるが、移動する動物たちを追って狩りを中心とする生活のサイクルがあったと推測されている。移動する先々で、簡単なキャンプ小屋を設定し、石器を始めとする道具を製作、補充し、さらに、獲物を解体し食料や原料を確保するという生活パターンが、何万年もの間続けられていたのだろう。

図5 東金市道庭遺跡遺構実測図(1/60)
 
 当町では、昭和五十九年に大網山田台No.3遺跡が、同六十年に、沓掛(くつかけ)貝塚が調査され、それぞれ、ソフトローム層、及び、姶良丹沢火山灰~第二黒色帯にかけての文化層が調査されている(写真3、以下、大網山田台遺跡の資料については(財)山武郡南部地区文化財センターの提供)。また、周辺では、茂原市神田山遺跡、東金市山田水呑遺跡、千葉市土気地区遺跡群などが主な遺跡として挙げることができる。特に、土気駅南地区の遺跡は質量共に豊富で、千葉県の先土器時代研究上必ずとりあげられる内容といってよいだろう。しかし、残念なことに、これらの遺跡のほとんどが未報告であり、詳しい状況を知りえない。それゆえ、当町史ではそれらの内容についてふれることはさけてある。近い将来、更に発見例が増し、次々と報告がなされた段階で、町民の皆さんに紹介するなんらかの機会が持たれるであろう。

写真3 大網山田台No.3遺跡,遺物出土状況