約一万数千年前、石器群の組成に変化がみられるようになる。まず、尖頭器が、次に有舌尖頭器が現われた。そして、これに対応するかのようにナイフ型石器は姿を消してしまう。尖頭器にしろ、有舌尖頭器にしろ、それらは基部を柄にさしこみ、槍として用いられるもので、その限りでは単にかたちが変わったといってもよい。しかし、それより後れて加わった石鏃(せきぞく)は、かたちそのものはそれ程かわらないが、より小型で、弓矢の鏃(やじり)として用いられたものである。弓はその性質上、遠くの獲物を射殺すことができ、安全でなおかつ、強力な狩猟具ということができる。先土器時代と縄文時代の基本的な相違のひとつとして、弓矢の有無をとりあげるのは当然なのである。その起源については、大陸からの伝来であるという意見もあるが、狩猟対象となった動物相の変化(より小型で敏捷な動物が主流となる)といった点も大きく関わっているのではないだろうか。この石鏃の出現と前後して、土器が登場する。
土器の有無は、単にそれが時代の区切りとして重要であるといったこととは別に、人間の歴史の上で大きな意味があろう。石器は原材を加工し、目的に応じて形をつくりだしているが、素材そのものを変えるものではない。一方、土器は粘土という可塑性(かそせい)のあるものから、形を創り、さらに、それを焼くことによって、素材のもつ性質をかたく崩れないものに変化させる。このことは、ものを利用し道具をつくる段階から、ものを加工し道具を生み出す段階へと一歩を踏みだしたひとつの事例としてもよいだろう。人は土器の発生を偶然の出来事のように説明したりするが、着実な進歩のあゆみは、やはり当然の結果をもたらしたといえる。土器の起源が日本であるかどうかという議論も、それなりに意味はあるのだが、それを生み出す、あるいは、受け入れる素地そのものが整っていたと考えてみたらよいのではないだろうか。
それはともかく、土器の出現は人間の文化史上やはり一つの画期をなすものといってよい。この最初の土器群も現在では多少整理されて、おおよその編年案も提示されるような段階に至っている。また、せいぜい破片のみであったものが、最近では形を復元できるほどの出土例もみられるのである。千葉県では市原市や印西町等でこの期の土器片がみつかっているが、従来は土器の存在そのものが不明確であったので、きっと過去の出土資料の中に混入しているものも多くあるかもしれない。ともかく、未だ研究の余地のある分野といってよい。
磨製の石器も時代区分の目安にされてきた。打製が古く先土器時代のもので、磨製か新しく縄文時代以後のものであるといった考えは、ヨーロッパ考古学の輸入によるのだが、しばらく前まで肯定されていたのである。ところが、最近になって、関東ローム層の中から先端部を磨いた局部磨製石斧があちこちで発見されるに及び、少くとも前記のような時代区分の指標としてはふさわしくないことが明らかとなった。このことはもちろん定形化した磨製石器がより優れているといった考え自体に問題があったのみならず、磨製石器の用途について十分な認識がなかった結果といってよいであろう。
最後に、海や川との関わり、つまり、漁撈についてふれておきたい。日本の先土器時代の遺跡では、釣針、銛(もり)、錘(おもり)等、漁業に関連する遺物は発見されないので、先土器時代の漁業について否定的な見方があっても当然である。しかし、何んらかの原始的な手段で漁撈を行っていた可能性を否定することは妥当であろうか。先土器時代は移動生活を行っていたので、集落にあって獲物をとりこんだ縄文時代とは違う。そのため、もし漁撈が存在した場合、海や川の近くのキャンプを基地としていたことは当然考えてよいと思われる。前にも述べたが、先土器時代は氷河期にあたる。海水面が大幅に低下した結果、海岸線は現在よりもはるか沖合にさがったので、海辺や川べりの遺跡は海面下に、あるいは、河岸段丘下に隠れてしまっている。漁撈の有無をいう場合には、まずこの点を考慮する必要があろう。東京都秋川市前田耕地遺跡ではサケ科の魚骨が遺物と一緒に出土しているが、これは旧河原に立地していることもあり、今ふれた事情を考える一例として挙げておこう。
以上、先土器時代と縄文時代を区別する場合の基本的な要素についてみてきた。両者の差を決定づける大きな違いを土器の発生や弓矢の出現、とりわけ、土器の有無に求めるのは、現在の時点では当然といってよいのではないだろうか。その意味で、縄文時代以前の時代を先土器時代とよぶ考え方は納得性がある。また、そのことによって、複雑な時代の区切りを明解で容易なものとしてくれる利点も備えている。
私達はもちろんあるものさしをもって歴史の流れを判断している。先土器時代にしろ、縄文時代にしろ、それぞれの終りと初めは、互いに共通項が多く、生活上の変化も実際は徐々に推移していったものと予想される。しかし、人類の、否、日本の歴史上、この一万数千年前後の変化は、やはりひとつの大きな時代画期をなすことは認めてよいのである。