佐賀県唐津市菜畑遺跡では、昭和五十五~五十六年の調査によって、縄文時代晩期後半の水田跡が発見された。これは、それまで最古といわれていた福岡県板付遺跡よりも、さらに古いことが伴出した土器から明らかになっている。調査区域から見つかった水田の跡は、幅四メートル、長さ七メートル以上の区画のものが二面あったと推定され、畦(あぜ)や水路も一部確認されている。更に、この遺跡では同後半~弥生時代中期に及ぶ五層の水田跡も発見され、そこでは、水路を引き、井堰を設け、畦を廻して水田を区画するというような整った水田が営まれていたことがわかっている。出土した遺物には、縄文時代の伝統を受け継ぐ打製石鏃、玉類、土器等と共に、磨製石鏃、石製工具類、木製農具、石庖丁、管玉等、朝鮮半島起源のものがみられ、遺物の上からは日本固有のものと、外来的なものとの両者が共伴するのである。つまり、この菜畑遺跡の住民たちは、縄文時代の生活、慣習を多分に残しながらも、生活の根幹を支える分野において、稲作という新しい生産のしくみをとり入れているのである。一面に水田のひろがる日本の農村の風景の原形はまさにこの頃に求められるのではないだろうか。将来、この菜畑遺跡のような調査例は更にふえることは確実であるし、また、より古い水田跡が発見される可能性ももちろんある。その意味で、日本における稲作の開始が何時頃までさかのぼるのか、また、その栽培技術はどの程度のものであったのか、については今後の研究に負うところが大きいといえよう。ここでは、様々の角度からの研究が進んでいて、その内容が比較的よくわかっている静岡県登呂遺跡の資料を掲げておくことにして、稲作伝来に関わるいくつかの問題点を次に述べることにしよう(図17)。
図17 登呂遺跡水田跡(『案山子第2号』杉原荘介)
縄文時代晩期にさかのぼる稲作も、初期の遺跡が玄界灘沿海に認められるということは、その伝播や起源を考えるうえで示唆(しさ)的ではある。アジアの稲の栽培種には日本型とインド型に大別できるといわれている。この日本型というのは、丸みを帯びていることに特色があって、その起源は雲南(うんなん)・アツサム地方であり、それから揚子江沿いに中国各地へ伝えられていったのではないかという説が有力である。問題はこの中国からどのようにして日本へ入ってきたかということになる。最近では、揚子江流域―山東半島―朝鮮半島南部をへて、北九州に伝えられたとする考え方に傾きつつある。中国では既に紀元前四千年前には稲作が行われており、朝鮮半島でも紀元前千年前には半島南部で稲作が存在したと推測されている(炭化米出土)。そして、両者共に米以外の雑穀類、豆類等の栽培は更に古い歴史をもち、また、家畜の飼養も認められている。つまり、海をへだてた大陸、半島の地では、未だ原始的なものながら、日本の縄文時代中期にあたる頃から農耕が行われていたことは確かなのである。それがなぜ日本にもっと早く伝わってこなかったのかという疑問は、当然もつと思われる。それについての詳しい説明は難しいのだが、当時の日本は海の向こうの辺境の地であった訳だし、また、日本には独自の自然条件が存在する。原始的な段階では、単純に農耕が狩猟や漁撈に勝るとはいいきれないであろう。稲はもともと熱帯原産のものであるから、北方への伝播は無理がある。それゆえ、華北、あるいは、朝鮮半島において稲作が定着するには、稲自体の品種の選択や地域に見合った栽培技術の確立が前提になってくる。それと同時に、労働集約型のこの新しい生産のしくみは、それまでの縄文社会では考えられないような集団内の新しい結びつきを必要としたのではないだろうか。北九州、とりわけ対島、壱岐、松浦半島といったところは、朝鮮半島南端の浦々と歴史的に深いつながりを有している。それはたとえば、関東地方と東北地方の結びつき以上といってもよいであろう。それに、両者は自然条件も似ており、先ず、半島南部で稲作が受けいれられれば、当然それは日本にもたらされたとおもわれるのである。朝鮮の無文土器(日本でいえば縄文晩期頃の土器)はしばしば北九州でみつかっているし、逆に日本の土器も海をわたっている。このように考えてみると、彼の地で確立した稲作の技術が日本に移入され、根を下した時期はむしろ遅かったといってよいかもしれない。この稲作からくる利点、それは社会に安定をもたらしたであろうし、少なくとも他の穀物よりははるかに効率がよいわけである。このことは、そのまま、その生産集団が経済的に有利な状態になった。つまり、豊かなムラに生まれかわったということができようか。
海の向こうの豊かなムラの人々は、土器は口縁部を除いてはほとんど文様をもたない簡素な土器を使用し、石器は総て磨製である。鉄器(てっき)、青銅器(せいどうき)を有し、墓は支石墓(しせきぼ)、箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)、甕棺墓(かめかんぼ)、石室墓(せきしつぼ)といって、石や土器を用いていることに特色がある。前記、菜畑遺跡出土の半島起源の伝来的遺物をみてみると、たとえば工具である扁平片刃石斧、抉入(えぐりいれ)石斧、蛤刃石斧、収穫具である石庖丁等、それらは総てその起源を正すと半島で用いられていたものなのである。つまり、稲作伝来はそれに伴なう文化そのものまで一緒に伝えられたのだと考えてよいのではないだろうか。いつの時代でもそうだが、経済的に優位にある者は、軍事的、政治的にも強いのである。弱者が強者の文化をとりいれるのに不思議はないであろう。
ところで、文化の伝来の過程で半島からの移住者はあったのだろうか。この問題は日本人のルーツ観とからんで、明治よりこのかた論議の的になってきた点だが、現在では各地より出土した人骨の研究が進んでいて、弥生時代人が即半島からの移民であるという人はいないと思われる。よく玄界灘沿岸より出土する弥生時代人骨は長身面長(ちょうしんおもなが)で、背が低くどちらかといえば四角い顔の南九州人との相違が指摘されている。そして、この違いは半島からの移住者がやってきて、一時的に変化がおこったか、次第に風化されてその子孫が今日の九州人になったのだとしばしば説明されている。しかし、人骨は個体差が大きく、しかも、地域的、条件的な資料のかたよりがみられる。また、この分野での朝鮮半島の研究の遅れも気になる点といってよい。土器そのものは基本的に日本の伝統が受けつがれているし、文化全体の中で、半島起源のものはとりわけ目立ってしまうこともさしひいて考える必要があると思われる。結局、この問題の結論は更に長い研究の過程をへることであろう。伝播の際の移民はそれほど強調することはどうかと思われるのである。漸時、東に伝わってゆく場合などは、荷物の受け渡しのように次々となされていったというのが本当ではなかったろうか。