当町内では、残念ながらこの時代の稲作を示す遺跡は未だ発見されておらず、また、それに関係する遺物も見つかっていない。しかし、周辺の遺跡では稲作を窺わせる多少の遺物が既に出土しているので、まずそれから紹介することにしよう。
隣市、東金市の道庭遺跡(現・農業大学校敷地)では、弥生時代全期にわたっての遺構・遺物が見つかっているが、その内のひとつの土器の胴部外面にモミの圧痕がついている。土器は長さ二十五センチメートル、幅十七センチメートルのもので、つくる際に表面に2個ほど付着したと思われる(図18)。このように、土器の器表にモミの圧痕がみられる例はかなり広範に類例が認められている。関東の縄文土器にそのような例がなく、弥生時代以降にしばしばみられるということは、やはり土器をつくる現場に稲モミが混入する条件があったからに他ならないだろう。ちょうど、二十年前の農家の庭前で土器を実験的につくったら、十個体もつくる内には一個位はそのような土器ができあがるかもしれない。この道庭の事例は弥生時代中期後半としてよいものだが、関東地方でもさらに古く、中期中頃には稲作が既に始まっていたと推測されている。地理的には遠くなるが、埼玉県熊谷市の池上遺跡というところで、最近、弥生時代中期中頃の低地の集落跡が発見された。方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる墓地を隣接地に営み、この期の新しい磨製工具もともに出土している。しかし、その土器は縄文時代の伝統を未だ十分に残しており、また、各種の遺物にもその傾向は窺われる。あたかも前項で述べた菜畑遺跡のような事例の関東版といってよいかもしれない。この池上遺跡では、旧河川と思われる大きな溝の跡から水稲農耕に伴なう各種木器(もっき)が出土しているが、その出土層位は古墳時代と推定され、また水田の跡も今のところ確認されていない。中期の集落跡はこの他に埼玉県、神奈川県で何か所も発見されているが、同じく稲作を裏付ける遺物は出土していない。台地地形の広く発達する関東平野では、集落は台地に、水田は谷にというように、その使い分けがはっきりしている。土器や石器など、当時の生活用品は畑地化された台地上では容易に発見されて、発掘調査に至る場合が多いのだが、一方、谷間の水田は深く埋まってしまい、何かの事情がなければ人目にふれることはまれなのである。関東地方でこの弥生時代の初めの水田跡が発見されない原因はひとえに今述べたような理由があると思われるのである。最近調査された、千葉市南生実の水田下の遺跡では、弥生時代中期の土器とともに木製農耕具の未製品が出土している。遺物の出土した層は現水田面より二メートルも下であるから、単に歩いただけでは遺跡かどうかわからないといってよい。台地上の遺跡をこれから調査しようとする場合、まず、周囲の低地を疑ってみる必要がある。当町では、稲作伝来時の遺跡はもちろん発見されていないのだが、弥生時代でも後半の頃の時期になると多少の遺跡が認められるので、それらの遺跡における稲作の可能性を探ってみることにしよう。
図18 道庭遺跡出土籾痕土器
県道白里大網線を白里方面へ向って行くと下ケ傍示橋の右手前に長国というところがある。この長国地内の春日神社の境内は多くの場所が山林だったが、最近開発されて遊園地となっている。しかし、その表面には多くの土器片が散布していて、その中に弥生時代のものがまじっているのである。完全な形をなすものは見当らないのだが、北側、水田に面する畑中からやはりこの期の土器片を拾うことができる。つまり、西側の水田を見おろす小高い地に弥生土器がみつかるのである。数年前にこの春日神社とは小河川をへだてた南西の地(茂原市粟生野)において、掘削された断面に弥生土器がはさまっている砂丘跡をみつけたことがある。そして、その一部に住居跡かと思われる黒いおちこみも確認している。前の春日神社周辺といい、この粟生野地区の例といい、これら散布地に共通する要因ともいうべきものを考えてみると、その自然条件の似かよっていることに気づくであろう。図19をみてほしい。北吉田~長国に至る地域は水田が多いが、その中の島状の地、あるいは、水田に面した砂丘の縁辺部に多く遺跡が存在することに気づくのではないだろうか。そして更に、これは現地にいってみるとよりはっきりするのだが、比高差の大きい高台の地が選ばれていることである。前面の水田に現在でも湿田で、いわゆるフケ田であるが、南白亀川が近くを流れているために排水の便はある。この多少の湿田という条件に加えて、いくらかの排水もできるということは、当時の技術水準からするとかえって水稲栽培上の適地ということができよう(写真10)。関連することなので若干つけ加えておくと、この北吉田~粟生野の地は古墳時代~奈良、平安時代に至るまで、連綿として続いた遺跡であって、とりわけ、平安時代の遺物はかなり広範囲に認められる。この事実は長期間にわたってそこに集落が営まれた結果と考えられるが、そうすると当然のことながら、周囲は現在と同じように水田となっていたことであろう。それは、この地がそれなりのよい条件であったからに他ならないと思われるのである。
さて、当町における稲作の始まりについて少ない資料から推測を加えてきた。未だ弥生時代中期にさかのぼる遺跡が見つかっていないこと、および水田跡そのものの発見例がないことは、後期の遺跡の周囲にその比定地を求めるという結果に終ってしまった。しかし、このことはそれほど問題ではない。当町の西部丘陵地域でも将来この期の遺跡は多く見つかると思われる。そして、その時には、粘性の土ゆえに非常に遺存のよい状況で発見されるのではないだろうか。耕作の折に、また工事の際に気にとめておいてもらいたいものである。