二 古墳の発生

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 古墳といえば大概の人は、ああ、あのことかと納得するはずである。それほど古墳は一般的であり、かつ、副葬品の豪華さから耳目をひくところでもある。大は世界一といわれる仁徳陵(全長四八六メートル)から、小は数メートルの小さなものまで、その分布は岩手県以南のほぼ日本全国に分布しており、円墳、前方後円墳を始めとして、形態もさまざまである(写真11)。また、その年代は古墳時代の前期(四世紀)に始まり、後期(六~七世紀)に盛行を迎え、一部は奈良時代に及んでいる。このような墳墓が好んで作られた時代、それを古墳時代と呼んでいるわけである。私達はもちろん古墳そのものに何か神秘的なものさえ感じるであろうが、それは明らかに人間の作ったものであると同時に、当時の社会の産物でもある。すでに前項でみたように、古墳時代は古代農業の発展期であった。豊かな生産力と古墳とが深い関連を有していたことは疑いえないであろう。古墳はその限りにおいて私達に何かを教えてくれるのである。以下、その発生と伝播の状況、及び出土遺物を含めて総合的に検討してみよう。

写真11 金谷郷県神社付近の古墳群
 
 紀元後、三百年前後を境として、現在の大阪北部、京都南部、及び奈良の各地に前方後円墳がほぼ時を同じくして出現した。そして、程なくこの墓制は畿内(きない)の各地や瀬戸内地方に伝わった。その形態は一般的に前方部がばち型を呈し、高さ、幅等が後円部に比べ劣っていることに特徴がある。墓の構造は、竪穴式石室といって、墓壙(ぼこう)に棺を納めた後に埋め戻すもので、これは弥生時代の墓制を引き継いでいる。副葬品は、銅鏡、武器、農工具がみられ、墳丘からは、土師器や埴輪(はにわ)も出土する。一方、近畿・瀬戸内から遠く離れた地域では未だ弥生時代の伝統的な墓制が営まれていた。すなわち、関東地方を例にとってみても、方形周溝墓、または、円形周溝墓があって、これらはいずれもはっきりと盛り土が確認されてはいるが、未だ弥生時代の伝統を色濃く残すものであった。ところが、四世紀も中頃になると、前記の地域で古墳そのものの数が増し、それとともに、今まで前方後円墳が築造されなかった地域にもその萠芽がみられるようになった。いわば古墳の伝播という現象である。ちょうどこの頃、日本各地ではこの新しい墓制と従来の墓制とが併存して複雑な状況を呈していたことがわかっている。ここ千葉県でも、たとえば佐倉市飯合作遺跡などはその好例であろう。そこでは若干の盛り土を有する二基の前方後円墳をとりまく形で、多くの方形周溝墓が群在しており、両者の間にはその築造にあたって密接な関係があったはずである。副葬品は、前方後方墳・方形周溝墓共に玉類を主とし、前者には更に銅鏃が加わっているが、これらは弥生時代後期以来の伝統といってよい。飯合作と同様な例は、市原市草刈遺跡などでもみられ、このような状況が特殊なものではないことは最早明確である。また、市原市神門(ごうど)4号墳、同小田部(おだっぺ)古墳のようにそれぞれ前方後円墳、円墳としては房総最古といわれている古墳がすでにこの頃出現しており、そうすると、四者が混然となって並存していることになる。
 更に進んで、五世紀の前後には奈良盆地においてとりわけ巨大古墳が出現し、それはほどなく大阪平野にも及んでいる。景行、垂仁、神功といった径約三〇〇メートルにも達する天皇陵を始めとする一群である。副葬品はやはり四世紀を通して同様であるが、質的な変化はもちろんある。石製模造品といって、滑石製の各種器具のミニチュアが好んで納められたのもこの時期のひとつの特徴としてよい。忘れてならないのは武器、武具の変化である。銅鏃は急激に減少し、かわって鉄鏃が主流となり、しかも、実戦用の形態と重さを有するものにとってかわられつつあった。そして、このことは、指摘されているように、甲胄類の変化と密接な関係にある。いわば、現代における戦車と対戦車用兵器とのイタチゴッコの関係に似ている。その出土状況にしても、大量の鉄鏃を始めとして、武器、武具類が死者の脇に副えられるというようなものであり、しかもこのような傾向は五世紀代を通して、より顕著なものになっていった。
 房総においては、この期に至って近畿地方と酷似する本格的な古墳が出現する。木更津市手古塚古墳を始めとして、以後、五世紀の中頃にわたり、千葉県の各地に百メートルをこえる大形の前方後円墳が築かれていった。たとえ、その副葬品の様相がいわば多少時代遅れであったとしても、また、甲胄等の出現が確認されるところ五世紀の中頃以降であったとしても、近畿地方を中心とする西方の社会とその墓制の歩みを同じくすることになったといってよい。
 さて、古墳発生の状況を近畿と房総に焦点をあててみてきた。弥生時代後期終末に至り、方形周溝墓の規模が大きくなるのに比べ、その絶対数が減少するという傾向は、古墳時代に引き継がれてゆく。そして、前方後方墳が新たに加わり(その起源はやはり近畿から以西にあると思われる)ひとつのまとまった墓群を形成する。このような状況はその被葬者(ひそうしゃ)についていくつかの推測を生んだ。その詳細な紹介はここではさけるが、要するに一地域(原始的な村の段階と考えてもよい)における有力者の墓であることは認めてよいであろう。しかし、その有力者は副葬品や墓の土木量からして、支配者としての王ではなく、むしろ指導者であり、また司祭者としての性格を考えるべきである。ところが、ほどなく現われる前方後円墳に葬られた被葬者には高い墳丘と立派な石室を有し、副葬品は豪華であり、かつ、武器、武具が多くみられることなど、そこには指導者から支配者への転化をみてとることができよう。あるいは畿内との共通性から、いわゆる大和朝廷(河内王朝)によって派遣された統治者層の墓と考えられないこともない。ヤマトタケルノミコトの東征という「紀記」の伝説も、もし真実とすればこのあたりに比定できるかと思われるのである。
 
 参考資料
  倭王武の上表文(武は雄略あるいは安康天皇、五世紀代の天皇と伝えられる。)
「封國偏遠 作藩干外 自昔祖彌 躬擐甲胄 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人 五十五國 西服衆夷 六十六國」 以下略
                                                (『宋書』「倭國傳」)