三 開発の進展と集落の増加

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 前二項において、古墳時代の農業の実態と古墳の出現からその伝播の過程をみてきた。ここでは、その両者の主人公である当時の人々の集落をのぞき、合わせて、最初の項において述べた問いかけの答えを用意するつもりである。また、今までは当町の資料を引用する機会がなかったが、今度はその責めを果たすことができそうである。
 古墳時代の集落の調査例はかなりの数にのぼっているが、とりわけここ十五年程の調査によって質量共に豊富な資料の蓄積をみたといってよい。当町及びその周辺の調査例を拾ってみても、金谷郷台の大網山田台No.4遺跡、同No.6遺跡、同No.10遺跡、東金市小野城址、同東金台遺跡、同久我台遺跡、同道庭遺跡と枚挙にいとまがないほどである(図27)。また、その内容も、久我台遺跡や道庭遺跡のように数百軒に及ぶ住居跡を検出した例や、東金台遺跡のように、隣接する台地を次々と広範囲に調査した例さえある。ここでは、当時の家の状況を知るためにその中の二住居跡をぬきだし、実測図をそれぞれ示しておこう(図28・29)。

図27 大網山田台遺跡群全図
 

図28 古墳時代前期の住居跡(大網山田台No.3遺跡)
 

図29 古墳時代後期の住居跡(大網山田台No.4遺跡)
 
 さて、このような調査の現状は、当然のことながらそこに成果の大なるものを期待するであろうが、現実は一向に進展していないのである。ただひとつ、土器の形態の研究だけは別で、今日まで細かな時期的変遷が追及されてきた。そして、前期―中期―後期と大きく三期に区分され、更にその細分が可能となっている。この点は、縄文時代、弥生時代も同様で、まず土器の型式設定―編年が優先で、その他は付随的に扱われてきた日本考古学の歴史的な研究姿勢の結果であるとも受け取れる。ひとつの集落をその出現から廃絶までの過程で、家族構成からムラのあり方まで追い求めた試みが果たしていくつあったのだろうか。そして、それが周囲の古墳群とどのような関係にあったのかについてもしかりである。限られた条件と資料からあえて推論を展開してゆこう。
 古墳時代の集落は開けた台地上の調査を行えば必ずといってよい程発見される。否、台地上のみならず、台地下においても同様で、当町の場合、丘陵地帯でも多くの集落が営まれていたと思われる。というのは、ひとつの確証があって、大網中学校のグランド北側の山腹に見出された遺跡などはそのあたりの事情をよく物語ってくれる。そこでは、緩傾斜の丘陵南側が崩されて断面が露出しており、そこに古墳時代中期の土器片が多く顔をのぞかせているのである。現状は山林であり、またこのような場所は畑としても狭い段々畑になり効率の悪さから放っておかれてきた。この傾斜面に古墳時代の遺跡が存在するとなると、当町の丘陵地域のあちこちにこの期の集落が人知れず眠っていることは確実ではなかろうか。また、このような傾向は古墳についてもしかりで、あるいは狭い丘陵の尾根上に地形を活用して作られたものが多く存在するのかもしれない。このように、郷土においてもこの時代は集落の数が増加し、しかも、今まで見捨てられていたような地にまで開拓の手が伸びていった。私の予想では、前期~中期に丘陵・台地のあちこちでまず開発の先鞭がつけられ(大網山田台No.10遺跡、沓掛貝塚ではこの期の集落、住居跡がそれぞれ発見されている)、後期には台地、丘陵の多くの地に次々と集落が形成されていった(図26)。しかし、海岸平野は別で、弥生時代末期~古墳時代前期にかけてある程度の遺跡数が認められるのみである(上貝塚周辺及び福岡地区)。平野部に古墳が見出せないのはもちろんそのことと関係があるのであろう。九十九里平野の本格的な開発は次の奈良・平安時代を待たねばならないのである。
 このような開発の状況は、先に述べた群馬県の状況とも一致すると思われる。当町ではこの時代の耕地の跡は確認されてはいないが、台地間の狭い谷や丘陵下の低地が水田となっていたことは最早断言してよい。湿田を可耕地としていた弥生時代と異り、古墳時代は徐々に乾田経営へと変わっていった。当時の基本的な産業である農業、その中心をなす水田の増加は必然的に人口の増大、つまり、集落の増加を招いたことは疑いえないのである。土地と深く結びついたムラの増加は、当然、指導者間の整理、統一を促し、より広い地域において一人の優れた指導者を生みだしたことであろう。この一人の指導者はそれゆえに多くの指導者を仲介にして広い地域を統轄していったものと思われる。四世紀代にあらわれた前方後方墳の被葬者は、あるいはこのような人物であったのかもしれない。そして、この人物はその始めは指導者であったものが、その後には原始的な法や身分制度にのっとった命令になり、富の体現者として君臨するようになる。同時に、その権力を子に代々伝えてゆく、いわゆる世襲権力を確立していった。王の誕生である。五世紀代の前方後円墳は彼の墓と考えたい。ここ房総では各地に村や町程度の規模でひとつの王国が存在したと思われるが、近隣の国々との対立、抗争はつきものである。それゆえ、各地の王たちはきそってより強大な王である畿内の大王(埼玉県稲荷山古墳の鉄剣に大王(おおきみ)とあるがもちろん他にも類例がある)と結びつき、その権威をかりることにつとめたであろう。前記手古塚古墳の様相などはそのひとつのあらわれと解釈したいのである。王の権力確立期の古墳には農具や武器がみられる。弥生時代末期から認められる生産力の向上を背景として、彼は乏しい鉄の素材や製品を自己の管理下におき、また、時には武器を後ろ盾にした権力をもって人々を動かし、広範な耕地の拡大と灌漑施設の維持管理を行って、高い生産力を獲得していったことだろう。「記紀」(『古事記』・『日本書紀』)にみえる国造らは彼らのことを指していると思われる。
 縄文時代はその食糧を総て自然にたよっていたが、そのことは同時に彼らの存在そのものが自然に左右されたことを示している。そこでは人間同士の結びつきがあくまでも自然との闘いの中にあった。ところが、弥生時代に至って人は始めて土地に働きかけ、それによって生活する術を覚えるようになった。この新しい食糧獲得のしくみは農業が安定してゆくに従い、集落は増加し、土地やムラを維持するために、人間集団の新しい結びつきが生まれていった。人々の間にいろいろな動きがあったのは当然である。人間の歴史がこの時点で支配者と被支配者を生んでいったことは事実であり、その宿命的な命題は今日においても私達になげかけられているのである。