四 農民の生活

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 ここで農民の生活をとりあげたのは、当時の人口の大部分が農民であったからに外ならない。産業の分化が進んでいない時代のことであるから、この農民とはそのまま後の商工業者をも兼ねていたと考えてよいであろう。
 古墳時代の農民の様子を知るには二とおりの方法がある。ひとつは考古学の成果によるものであり、ひとつは『日本書紀』をはじめとした記録によるものである。しかし、有名な「大化改新」の内容にしても、そのほとんどは奈良時代に入ってはじめられたものであるから、ここではとりわけ古墳時代の前期~後期に焦点をあて、考古学の成果を中心にして生活の具体的な様相を追ってみたい。とはいえ、複雑、多岐にわたる生活の諸相を総てみてゆくことは不可能に近いので、ここでは、いくつかの核を抜きだし述べるに止めたい。
 俗に生活の基本的な要素をとらえて衣食住と呼んでいる。まず衣服からみると、古墳の副葬品である埴輪において最もよく知ることができる。また、材料である布は、金属製品に伴って出土したり、あるいは、その中に米を入れコシキの中で発見されたりもする(船橋市海神遺跡)。ここでは、有名な芝山古墳を始めとした山武郡内の埴輪から当時の服装の一端を窺うことにしよう(図30)。

図30 埴輪に現われた古代風俗
(『小川台古墳群・殿部田古墳群』芝山はにわ博物館 図録3)
 
 食の基本は米である。しかし、実際の出土例には米の中に大麦、粟などが混じっていた例もあるから、地域によっては雑穀を食していたのであろう。これは、古墳時代における広範な畑の出現と軌を一にする。米の調理には蒸器であるコシキを使う。その使用法は釜の役割をはたした甕形土器とセットになり、カマドに据えられる。炊くのではなく蒸すのである。私達がふだん口にしているご飯は、当時の人々からすればヒメ飯であって、現在のお粥のようなものである。穀類以外のものとしては、大豆、ササゲ、ソラマメ、エンドウ、ウリ、ヒョウタン等があるが、果樹の栽培も既に行われていたようで、モモ、ウメ、カキ等が認められる。前に挙げた菅生遺跡では、イネ、ウリ、ヒョウタン、クルミ、クリ、カキ、イヌガヤの実などが出土している。
 稲作の伝来とともに、食肉の慣習がなくなったと思う人も多いであろうが、実際はそうではなく、牛、馬から、はては犬、鶏まで食していたことは「記紀」の記すところである。魚貝類も同様で、とりわけ沿岸部において著しく、海に直接面する千葉市上ノ台遺跡では、大規模な貝塚が形成されており、また、大形の土錘が多量に出土するところから、貝の採取と網漁による内湾性の漁業を行っていた漁撈集落の様相を知ることができる。
 住居は依然として、竪穴式住居である。しかし、竪穴の内部構造は前期以来徐々に変化がみられる。その過程を市原市草刈遺跡からみてみよう。図31は前期~後期にわたる平面構造の変遷を示している。詳細は省くが、入口の梯子を下りて竪穴の中に入った場合(一メートル前後の深さであったと思われる)、四本の柱と、炉、貯蔵穴がみえるというのが前期の姿である。そこでは住居内の空間は自由であり、物置、居間、炊事場等が総て兼用と考えられる。また、床面がよくふみしめられていることから、ほぼ土間に近いものであったろう。おそらく寝る時はムシロのようなものを敷いていたのではなかろうか。ところが、中期の後半にカマドが住居の壁につくられるようになると、住居の中の空間を特定の目的に使用するようになった。住居の空間分割という現象である。そして、この傾向は一層顕著になり、次第にその構造は定形化し、一定のタイプに落ちついてゆく。このような変化は、昔の農家から、室の多い現在の住宅の変化と似た一面があって興味深い。

図31 古墳時代住居の内部構造
(『研究連絡誌』11 (財)千葉県文化財センター)
 
 さて、以上、古墳時代の生活の一断面をみてきたが、全体として華々しさはないものの、着実な進歩の度合をみてとることができよう。いわばこの古墳時代こそ民衆の生活史にとって分岐点といってよい内容を備えているのである。