六世紀後半~七世紀における畿内豪族間の対立抗争は、七世紀の中頃まで様々な形でつづいていた。聖徳太子の政治や大化改新の事件はいずれもこのような政治状況の産物であったが、壬申(じんしん)の乱をへて、天皇の権力は以前にもまして強力なものとなった。いわゆる中央集権国家の誕生である。乱を戦いぬいて即位した天智天皇は、「浄御原(きよみはら)(律)令(りょう)」を制定し、政治上の諸制度を整えた。律令(律とは今でいう刑法、令とは行政法、民法である)国家の始まりである。律令はこの後、七〇一年に大宝(たいほう)律令、七一八年に養老(ようろう)律令と、順次整備されていった。ここに、当時の東アジアの国々と肩を並べる国家が出現したのである。都も、飛鳥(あすか)から一時は畿内各地を移動したが、七〇八年、元明天皇の時に現在の奈良に定まった。新しい政治体制にふさわしい立派な都、それが平城遷都であり、以後約百年間の間を奈良時代と呼んでいる。
律令制度の内容についてはいちいち述べるのはさけ、ここに表3、4、5を掲げておく。その概略は理解できるであろう。
表3 律令官制表(中央)
表4 律令官制表(地方)
表5 律令制における農民負担一覧表
行政のしくみは、今日でもそうであるが、単なる法的整備ではなく、それが当時の実状にどれだけ即していたかにある。氏姓制度によって序列化された中央、地方の豪族達は、それぞれ私有地、私有民を所有している。彼らの権利は公地公民制のたてまえからすれば、当然収公されることになる。律令制のもとで大きな特権を与えられた中央の豪族=貴族たちはいざしらず、地方の豪族(旧国造層)たちにとってこれは素直に応じがたいものであったろう。人は、従来の国造にかわるものとして、彼らを郡司に任命し、その混乱を防いだと説明するかもしれない。しかし、国造家の出身者、必ずしも郡司に任命されたわけでもなく、僅か四~六町の職田(しきでん)で簡単に事が済んだとも思われない。これは中央政府の強力な指導に加えて、古墳時代後期、七世紀代の地方の実状と深く関連しているのであろう。
その一方で、支配者層の確定という状況が認められる。畿内の有力豪族達は高位・高官を独占し、貴族としての大きな特権を享受した。彼らは互いに政敵を追い落とすことはあっても、体制を変えることはなかったのである。貴族層の出現は六・七世紀における有力豪族による政治運営を制度的に精算したとも受けとれるが、以後、平安時代の長きにわたって政権の中枢を占めたのである。
このように、律令制度は、古墳時代における有力豪族間の政権抗争をへて、確立された政治体制、それを中国の制度にならって法的に整備したものといってもよいであろう。