二 地方行政制度と郷土

122 ~ 124 / 1367ページ
 律令には地方行政区画として、国―郡―里(八世紀前半には里にかわって郷が定着した)を定めているが、この制度とて突然に制定されたものではなく、その始まりは七世紀中頃の大化改新から漸次整えられ、八世紀に至って完成したものである。これによって、従来の国(律令の郡相当)―村(律令の里相当)を治めていた国造―村首から、国司―郡司―里長という新しい支配関係が成立したのである。『国造本紀』には、山武郡地方に無邪(むざ)(無射)国造を載せるのみであるが、配置そのものに地域的なかたよりがみられるので、大網周辺にも別の国造(たとえば山辺国造)の存在を考えてよいかもしれない。それはともかく、現在の大網白里町、九十九里町、東金市、旧土気町を含めた地域は山辺(やまのべ)郡として編成され、さらに大きく、上総国に組みこまれたのである。そして、郡の下には郷があって、『和名抄』には、禾生(あわう)、草野(くさの)、高文(たかふみ)、山口(やまぐち)、岡山(おかやま)、管屋(すがや)、武射(むざ)の七郷を載せている。その具体的な比定は、『和名抄』の実状が九世紀段階のものと思われることから、次章において行うことにしたい。
 一郷は五〇戸をもってせよと規定されている。戸とはもちろん現在の家族とは異って、血縁関係で結ばれた数家族と考えてよい。この戸を郷戸と呼び、郷戸を構成する家族の単位を房戸(ぼうこ)と呼んだのである。ひとつの身近な例(下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍(こせき)―現在の東京都江戸川区に当る)を示しておこう(表6)。

表6 大嶋郷の戸籍
 
 文献より知られる状況は発掘調査の成果とどう対応するのであろうか。奈良時代の遺跡としては、大網山田台遺跡群を挙げることができる(図32)。既に本調査が終了した、宮山遺跡(大網山田台No.10遺跡内、住居跡四九戸検出)を始めとして、多くの集落跡が金谷郷の台地上に存在することが確認調査の結果より明らかになっている。隣の東金市、及び、千葉市土気地区においても奈良時代の集落跡は広く確認されているので、古墳時代に引きつづいて一層の開発の進展が予想される。また、海岸平野への働きかけもこの期より再開されたようで、上貝塚では若干の土器片の出土をみている。おそらく、台地上の調査報告書が公けになった段階で、当町における奈良時代の様相の一端が明らかになるであろう。

図32 奈良時代の住居跡(大網山田台No.4遺跡)