三 支配の実態

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 律令制度のもとで重税に泣き、徭役(ようえき)、兵役につく農民の呻吟(しんぎん)のさまはことあるごとに強調されている。ここでは前項において農民の負担はふれてあるので、あまり紹介されない一面について述べておこう。
 地方行政の末端で収税、徴発にあたるのは里長である。彼等は当時の歌に鬼のように記されている。しかし、逆にいえば鬼にでもならなければ、この可酷な取り立てを実施することができなかったのではなかろうか。両者にとって不幸な現実はあまりに多い。
 まず租であるが、水田一段あたり稲二束二把(約三升)と規定されており、軽いように考えられている。たしかに当時の収穫量に班田された土地をかければ一戸がかろうじて食ってゆく位の米はとれる。しかし、これは良い田で天候がよく病気にもかからず一生懸命に働いた場合の話である。記録をたどってみてもわかるとおり、災害の記事はあまりに多い。旱魃、洪水、津波、地震、火災と自然の営為にはほとんど無防備でさえある。そして、その度に飢饉が、さらに、疫病がついてまわっている。当時の医学書に記すごとく、赤痢の時には糯の粉を米粉にまぜそれを何回も飲ませよとあるが、体力の弱い者にどれ程の効力があったのだろうか。肺炎の類も同様である。また、疱瘡(ほうそう)は流行の度に多くの死者を出している。この点は貴族においても例外ではなかったようで、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、数か月の内に十数人が死亡したという状態である。おもしろいことに、疫病の月別発生件数を調べてみると、三月~七月の間、とりわけ五月にに多いことが知られる。陰暦であるから現在とは一月ずらして考えてみると、これも衛生状態の悪さからくるものではなかったか。
 これにさまざまの徭役が加わる。調庸の品物を都に運ぶのは馬ではなく納める当の本人である。脚結(あゆい)(着物を引き上げひざのあたりで結ぶ紐)を結び、行縢(むかばき)(向脛のおおい)をつけ、京までの道のりを歩いたのである。ゆきはよいが帰路の途上で死んだ者が多かったという、これは都での労役に従って上京した人々も同様である。
 九州の防備につく兵士を防人(さきもり)と呼ぶが、どういうわけか彼らは東国出身者が多かった。遠く離れた異郷の地に赴く彼らの労苦はまた母や妻たちの別離の悲しみを伴っていた。
 
  わが母の袖持ち撫でてわが故に泣きし心を忘らえぬかも
           山辺郡上丁(かみつよぼろ) 物部乎刀良(もののべのおとら)
                    (万葉集 防人の歌)
 
 防人として任につくにあたり、母が袖を撫でながら泣いて別れを惜んだ気持ちが忘れられないと歌っている。作者の乎刀良とその母はどこに住んでいたのであろうか。
 暗い話ばかりを述べてきた。最後にひとつのエピソードを紹介しよう。東金市岡山出身者の話であるが、既に川戸彰氏が詳説しているのでそのまま転載することにしよう。
 
  『正倉院文書』の一つに、
 
 写書所解 申願出家人事
 合廿七人
    (前略)
 丈部臣曽弥万呂 年卅九 労二年 上総国山辺郡岡山郷戸主丈部臣古万呂戸口
    (中略)
  天平廿年四月廿五日
                   阿刀酒主
                   伊福部男依
                   志斐麻呂
 
 文中の丈部臣(はせつかべのおみ)古麻呂は、天平十一年(七三九)七月右衛士府(うえじふ)の火頭(かとう)であったが、皇后宮職移により同十二年(七四〇)七月までその駈使に服していたことが知られている。本地方から京にのぼり活躍した実在した人物である。また、先の文書によって、天平廿年(七四八)頃岡山郷の一郷戸主として一族を統率していた事実も知られる。曽弥麻呂については、天平廿年四月写書所より出家の願いが出された廿七人中の一人として、はじめてその名が知見にのぼり、その後出家(しゅっけ)が許されなかったらしく、写経事業に挺身していたことが数多くの文書に散見される。山辺郡岡山郷出身者として写書所の装潢(そうこう)となり活躍した人物である。いずれにしても、山辺郡岡山郷に丈部臣を名のる古麻呂と曽弥万呂の一族が、奈良時代のある時期に住んでいたことだけは確かなようである。」

(川戸彰「奈良時代の東金地方」『東金文化』第16号 昭和四十五年)