霊亀元年(七一五)条
「諸国朝集便に勅(みことのり)して曰く、天下の百姓、多く本貫地(本籍地のこと)に背き、他郷に流宕して、課役を規避す(きらって免れる)。」
養老元年(七一七)条
「率土(国のはて・辺土)の百姓、四方に浮浪し、課役を規避して、遂に王臣(貴族層のこと)に仕へて、或は資人(舎人の一種でいわば使用人)を望み、或は得度(出家すること)を求む。」
養老七年(七二三)条
「夫れ新に溝池(灌漑施設)を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず給して三世(三世代)に伝へしめん。」
天平十五年(七四三)条
「今自り以後、任に(意のままに)私財と為して、三世一身を論ずること無くに、咸悉く(みな)永年取ること莫かれ(永代にわたって収公してはならない)。」
前二条は本籍地からの農民の逃亡の状況を伝え、後二条はその対策を示したものとしてよく知られている。班田農民がなぜ逃亡せねばならなかったのか。その理由はいうまでもなく、前項においてあげた税のきびしさである。当時賤民といえば、まさに家畜そのものであったが、更に奴婢(ぬひ)になると全く売買自由であり、彼らに人権など存在しようもなかった。しかし、逆にいえば税負担から全く自由の身であり、そのことが公民をして、万葉集に歌われるごとく奴婢になってみたいといわせるのである。本当に奴婢になりたいと思っている公民は誰もいないし、また、できれば逃亡などしたくないだろう。このような状況はまた農民自身の貧富の差の拡大とも深い関係があった。豊かな農民は奴婢を多く所有し、ますます富み、貧しい農民は更に貧しく負担にあえぎ逃亡するのである。後二条の史料は、いずれもその前段に理由がつけてある。一方は、「百姓」が増え水田が足りなくなったからといい、また一方は、三代では耕作意欲が続かないというのである。いずれももっともらしく聞こえるが、農民が逃亡するのであればふえるのはむしろ荒地であるし、三代所有してよいといった僅か二十年後に永代所有を許すとあるなど、これはむしろ、実態を苦慮した苦肉の策という他はない。形はどうあれ租税収入があればよいという訳である。
しかし、このことは、貴族、寺社、地方豪族にとって都合のよいことであった。彼らは、自から開発の先頭に立ち、私有地を拡大していった。荘園の始まりである。まさに、律令制度はその根本から、また、その内側からくずされていったのである。
図33 瑞穂横穴群6号横穴実測図
写真12 瑞穂横穴群 遠景
大網の横穴―奈良時代には大網の丘陵地域のあちこちに横穴が築造される。
庶民の墓といってもよいであろう。