二 産業の発達

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 古墳時代においては、房総は未だに産業の後進国であった。鉄の素材は総て移入品であったし、なかば陶器としての性質をもつ須恵器にしても同様である。しかし、奈良時代も前半から、房総の地にも産業の萠芽がみられるようになった。それはこの時期になって多くの生産関係遺跡が発見されることによるのである。ここでは、製鉄、及び、窯業(ようぎょう)(須恵器(すえき)生産)の二点にしぼって以下簡単に述べてみよう。
 千葉県における製鉄関係遺跡の分布は図39において知ることができる。このうち調査された遺跡は、柏市、流山市、沼南町等の東葛地区、新東京国際空港周辺の成田地区、千葉市誉田の千葉南部地区に大きく三分できる。しかし、報告書の刊行されているものは、柏市花前遺跡のみであり、残りはいずれも未報告である。ただ、その概要は、千葉市及び沼南町例を除けば、千葉県文化財センター刊行『研究紀要』7(昭和五十七年)において知ることができるので、以下その成果の一端を紹介しておこう。

図39 千葉県内製鉄関係遺跡分布図
(『研究紀要』7 (財)千葉県文化財センター)
 
 製鉄は、原料の採掘、燃料の採取から始まって、製錬に至る一連の作業を必要とするが、製品となるには、さらに精錬―鍛造、鋳造の過程を経ねばならない。この製錬の過程の遺構を製錬跡、精錬から鍛造、鋳造までの遺構を鍛冶跡と呼んでいる。これら一連の作業を把みえた遺跡に、成田市御幸畑遺跡がある。その概要を図40で示しておこう。
 
    製鉄過程発見された遺構
  
    下準備住居跡六軒
     |(住まいの構築)
    砂鉄採掘住居跡より砂鉄の出土
     |(ローム層下の成田層砂層中からの採取と考えられる)
    燃料採取炭窯よりクヌギ、エゴノキ、サクラ属の炭の出土
     |(周辺の雑木林からの採取と考えられる)
    炭  焼炭窯八基
     |
    築  炉砂採取穴
     |(粘土と混ぜ、炉を築くためのもの)
    製  錬一ケ所三基の炉
     |
    鍛  冶住居跡内鍛冶炉一

 

図40 成田市御幸畑遺跡製鉄遺跡全体図
(『研究紀要』7 (財)千葉県文化財センター)
 
 県内における製鉄遺跡調査例は、いずれも奈良時代八世紀のものと推定されているが、『研究紀要』でも指摘しているとおり、七世紀にまでさかのぼる可能性がある。生活必需品である鉄の供給を総て西方の地にたよってきた房総の地にとって、在地の鉄生産の意義ははかりしれないものがあろう。しかしこの製鉄業とて、それは素地のないところに出現したわけであるから、何んらかの背景を考えねばならない。そのことは次の窯業においても事情は全く同じである。
 千葉県における須恵器窯跡はわかっているもので十二遺跡にすぎないが、もちろん絶対数を示すものではない。現在行われている県単位の分布調査の成果が公表されれば、その数はさらに大きく増加することになろう。
 須恵器生産においても、製鉄と同様の作業工程が考えられる。ただ製鉄と異なる点は、成形―乾燥の過程で多くの人手と時間を要することである。窯跡そのものの調査例の少ない中で、さらに一連の作業工程を窺うものとすると、千葉市土気地区の坂ノ腰遺跡のみといってよい。簡略な平面図であるが、図41において注釈を加えておこう。

図41 千葉市坂ノ腰遺跡全体図
(昭和60年度千葉県遺跡研究発表会発表要旨 千葉県文化財法人連絡協議会)
 
 窯の出現時期は現在のところ、八世紀中頃の市原市永田、不入窯跡が調査例として最古に位置するが、前記坂ノ腰遺跡より谷を隔てた北側の南河原坂窯跡も大規模なものであり、調査報告書の刊行が待たれる。九世紀代の好例は坂ノ腰窯跡である。そこでは、従来、土師質須恵器、あるいは須恵系土器、あるいは赤焼き土器として扱っていた質の悪い須恵器を焼いている。この手の製品は九世紀~十世紀の集落跡において多量に出土するので、各地において窯が築かれ大量に生産されたのであろう。
 このように製鉄にしろ、窯業にしろ、その成立が七世紀末~八世紀の前半にかけての時期に認められることは、やはり政治の動きと無関係ではありえなかったと思われる。七世紀の後半より東国は確実に律令制のもとに中央の政治体制にくみこまれていったが、それは従来の間接支配にかわって、中央から派遣される官吏(国司)による直接支配であった。令制にもとづく徭役による各種の土木工事や、国衙、国分寺等の需要をまかなうのに、また、各種行事の供料として、在地生産の必要性が生じた結果なのではなかろうか。この新しい技術は、地方豪族に受けつがれ、以後、平安時代に広く房総各地に定着したであろう。坂ノ腰の場合などは、その品質の悪さから過小評価する向きもあるかもしれないが、この地の粘土に見合った窯業技術が開発され普及したと考えるべきである。九世紀以降の集落における鍛冶跡の検出例の多さも、同じ事情を反映したと考えてよいだろう。まさに九世紀前後を境として、この房総の地においても、産業の自立化がなしとげられたのである。