四 武士のおこり

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 承平、天慶の乱といってわからなくとも、平将門の乱といえば納得するであろう。彼はそれほどに有名な人物であり、神格化してもいるが、事のなりゆき次第では逆に悪役になっていたのかもしれないのである。
 彼の祖は、桓武天皇であり、その子孫が国司となり、上総介として関東に下った。任期後も上総に土着し、その一族は徐々に両総、常陸に勢力を扶植した。将門はその一族の一人として、下総に根拠地をもつ有力な地方豪族である。ところで、原因ははっきりしないが、彼は一族としばしば私闘をくりかえした。その過程は、テレビ番組や種々の読物で、まだ記憶にとどめている方も多いと思うが、最終的には勝利するのである。この直後に、彼は朝廷の召喚に応じ、上京し、釈明の結果、許されて帰国した。ここまでは事件は全く単純な私闘にすぎなかったのである。しかし、この後、将門は公然と朝廷に敵対した。衰えたとはいえ、国家が相手では、彼の運命もきまっていたが、何故にと思う人も多いことだろう。
 当時の史料に『将門記(しょうもんき)』がある。これは、乱平定の二か月後に書かれたとされるもので、著者は未だにわからない。しかし、将門に同情し、彼の死を惜しんでいる。国家に対する反逆などそれ以前では思うべくもないが、時の政治に対する不満が底辺にあったことは事実であろう。
 この乱は、結局鎮圧され、単なる反乱に終わったにすぎないが、朝廷の軍事的無力さが計からずも暴露されることになった。乱の鎮圧にあたったのは同じ一族であり、坂東各国に発した追討の命も効果を発揮しなかった。おそらく、将門自身、その武力的背景と、幾度かの勝利の経験がなかったら、果たして反逆を決意したであろうか。
 後の侍という言葉が示すように、武士は元々は有力貴族に仕えていた者たちであった。その内でも、血筋のよい、いわば貴種といわれる者達は、地方において棟梁(とうりょう)と呼ばれ、武士団の頂点に立つようになったのである。彼らは、政権内部の争いに乗じて、または、乱の鎮圧の度に、時の政権の実力者と深く結びついていった。源氏と平氏はその代表的存在であり、この一族によって武家政権が誕生するのである。