(1) 平将門の叛乱と東上総

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 古代末期、律令体制がくずれて東国各地で叛乱が起った。なかでも平将門の乱は京都の貴族政治に大きな動揺をあたえた。将門は、上総介平高望(たかもち)(桓武天皇の曽孫)を祖父とする東国武士団の名門で、下総国豊田郡(茨城県南部)を本拠に利根川中流部の農村地帯を活躍基盤として、中央政府の東国支配に武力で対抗したのである。
 伯父(はくふ)・叔父(しゅくふ)たちはすでに関東一帯に根を張って地方武士化しており、将門は父良将(よしまさ)の遺領をめぐり承平五年(九三五)ころから一族および近隣の豪族とはげしい抗争を展開していた。天慶(てんぎょう)二年(九三九)には常陸国府を襲撃して、国家に対する叛乱のらく印を押されると、かえって関八州と伊豆をも平定して、王位を自称して「新皇(しんのう)」と称したが、翌三年二月に藤原秀郷・平貞盛の連合軍と戦って敗死した(『将門記』)。
 将門の叔父にあたる上総介平良兼(よしかね)は、上総国司として国内一円に勢力を振るっていたが、承平六年(九三六)両総の兵をひきいて、下野(栃木県)の国境で将門軍と交戦している。『将門記』によれば、良兼は上総国武射郡(山武郡北部)から下総国香取郡の神前(こうざき)(神崎町)に出て、常陸の国水守(みもり)営所で平貞盛と合流したとある。結局、良兼は敗れて帰還するのであるが、このとき両総一帯は「常陸国を指して、雲の如く涌(わ)いて上下(両総)の国を出づ、禁遏(きんあつ)を加ふと雖も、因縁を問ふ、と称して遁(のが)れ飛ぶが如くてへり」(『将門記』)という状態であった。当時、辺境の東国農村では、血縁関係を中心とする祭祀共同体による農業経営が行われており、「一族が協力して荒野を開墾し、広い地域を惣領(そうりょう)家と各庶子(しょし)家が分有する大農園が形成され」ていった。これが南関東における一〇世紀当時の一般的な村落形態であり、外に対しては一族が団結する武装集団でもあった。それ故に、良兼の出陣に際して「因縁を問ふと称して」両総の武士たちが馳せ参じたのである(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。
 この良兼の根拠地については明確ではないが、邨岡良弼(むらおかりょうすけ)・清宮秀堅(せいみやひでかた)などは「上総国武射郡屋形村は、けだし上総介平良兼の舘する所にして、亦た郡司の故資に拠る処也。天慶の乱に良兼間道を取り、武射郡の小道より神前津(こうざきのつ)に至り、舟にて常陸に入りて、国香と会す」(『日本地理志料』)として、横芝町南部を良兼の居館地として推定している。近世以降、この良兼伝説は存在するが、その館跡については明確な位置は知られていない。将門研究家の赤城宗徳氏は『将門地誌』の中で横芝町の北部台地に館跡があったと推測されている。いずれにしても、栗山川の右岸に展開する上総地方の北部一帯が、一〇世紀以降、桓武平氏の一族によって開発されたことを物語るものと思われる。