(2) 平忠常の乱と上総大椎城(おおじじょう)

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 将門の乱から約九〇年後の万寿四年(一〇二七)、ふたたび東国において、平忠常(たいらのただつね)の叛乱が起こった。藤原氏の摂関政治による圧迫に苦しんでいた地方豪族は、ぞくぞくと忠常のもとへと集結したのである。以下、源経頼の『左経記(さけいき)』や藤原実資の『小右記(しょうゆうき)』などによって、当時の事件経過について概観してみたい。
 将門の叔父良文の子孫である平忠常は、坂東の受領(ずりょう)(地方長官)をしのぐ猛威を振るって、朝廷の規則に違犯し、官物を隠匿し、調・庸を堂々と略奪する実力を保持していたとされる。この忠常の猛威におどろいた朝廷では、検非違使(けびいし)の平直方・中原成道を下向させたが、すでに上総一国は忠常の手中にあった。忠常は上総大椎城(千葉市大椎町・旧土気町)を拠点に国府を占領し、上総介である平為政の妻子を抑留し、さらに安房に乱入しては国司を焼き殺すなどの暴挙をくりかえしていた(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。
 この忠常の兵乱は五年間もつづき、上総国内の公田二万二九八〇町余はわずか一八町余に減反、下総国府では在庁官人が飢餓状態となり、国司の妻女が憂死する有様であった(『左経記』『小右記』)。そこで朝廷は、甲斐(かい)(山梨県)の国守であった源頼信を派遣して、坂東の諸国に対して忠常追討の勅命を発した。ところが、忠常は、にわかに出家して名を常安とあらため、まだ頼信が出発する前に、みずから甲斐におもむき、すすんで降伏したのである。頼信は忠常を京都に護送したが、長元四年(一〇三一)六月、その途上の美濃(岐阜県)において忠常は病気のために死亡してしまった。これほどの大乱をおこしながら、忠常があっさり降伏したのが一つの謎である。それは、叛乱に参加した半農半武の地方豪族が、戦闘に明け暮れているうちに、荘園の田畑が荒廃して、その存立基盤である生産そのものを失ったからである(「平忠常の乱と中世城郭」『千葉日報・中世の城』3 後藤和民)。
 この忠常の叛乱事件は、単に房総地方の騒擾に止らず、東国一円の行政機能を停止させ、一時的ではあったが「兵(つわもの)」による在地支配の体制を確立した。この点にこそ、忠常の叛乱の真意があり、やがて中世社会の開幕を告げる序曲でもあったのである。