三 山辺悪禅師の伝承

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 古代末期における両総平氏の動向については、すでに前項で紹介したが、郷土の村々との関係においては「山辺悪禅師頼尊」が注目される。『群書系図部集』巻四に収載される「第百四十三・千葉系図別本」には、従五位上平忠頼の第三子として頼尊を載せ、「山辺禅師。土屋・笠間等之祖。」と注記している。一方、『湯走山般若院千葉系図』には「頼尊。俗称悪禅師、号山辺僧都。中村・土肥・土屋等祖。」と記され、僧形の荒武者の雰囲気を伝えている。
 前引の『千葉系図別本』の平忠常の項には、「忠常。太郎。縦五位上・下総権介。武蔵押領使。諸国数度之合戦。舎弟中村太郎将(常)恒・山辺三郎頼高(尊)、執権円城寺左京進・原左衛門尉其外家中之兵共下知及合戦。九十二歳而討死。(以下略)」と記され、頼尊(頼高)は初名を山辺三郎と称し、次兄である中村太郎(将常)とともに忠常の叛乱に参加したことを物語っている。また、『般若院系図』は叛乱の戦後処理に触れて「忠常雖既死、二子宜誅。時以坂東諸国、久被兵革、衰弊殊甚、停其議。二子終免誅。三子頼尊亦免為 僧、称山辺禅師。頼尊生常遠。白河・堀河際、為押領使、居笠間。」と記している。これによると、叛乱の後、将常・頼尊の兄弟は赦免され、頼尊は僧侶となって山辺禅師と称したとある。
 さらに『山辺家系図』の記載によると、平良文の項に「良文。従五位・鎮守府将軍。大和国山辺ニ住ス。山辺の苗之ニ基ス。」と注され、忠頼の項には「掃部助・山辺二郎」、頼尊の項に「下総介・山辺禅師房」とあって、以下、山辺四郎常遠・同太郎常宗と継いでいる。この系譜では、大和国山辺郡(後山辺庄・奈良県)を本貫地としているものの、頼尊を下総介と注記し、太郎常宗を上総介・右衛門佐と別注するなど、両総地方との由緒を伝えている。さらに一考するならば、鏑木清胤編の『坂東平氏一門将門系図』には、平良兼の裔公雅の妹をもって「頼尊室」と記され、武射郡と山辺郡の地縁的関連性についても指摘される。
 また、太田亮博士の高著『姓氏家系大辞典』第一巻には、以下のように記述されている。
 
山辺(ヤマベ・ヤマノベ)
大和国に山辺郡あり、和名抄に夜万之部と註し、書記に耶磨能謎とあり。(中略)
次に上総国に山辺郡ありて也末乃倍と訓ず。これも後世にヤマベと云ふ。(中略)
「桓武平氏関東流 上総国山辺より起る。千葉系図に「忠頼――頼尊(山辺禅師)」と載せ、千葉上総系図には「頼尊(山辺祖・禅師)――常遠――常宗(笠間押領使)――宗平(中村庄司)」と見ゆ。子孫、土肥・中村・土屋等の條に詳か也。又一本千葉系図に「忠頼――頼高(山辺三郎)」と載せ、又中興系図に「山辺、平・禅師頼尊、之を称す」と。
義経記に「上総国の住人、うさ(武射)・やまのべ(山辺)、あいかくは(相川)・のかみ(野上)の勢一千余騎、すへ川と云ふ所にて源氏に馳せ加はる」と見え、長倉追罰記に「山辺・西牧は梶の葉を打つ」などあり。

 やや長文の引用となったが、山辺氏の出自とその庶流の動向について簡明に述べている。ここに紹介した資料の多くは、江戸時代に編纂された系譜類であり、すべてを信用するには問題がある。しかし、各資料は山辺氏の家伝を断片的にではあるが継承しているものと推定され、それを集積することで、山辺氏の史実の一端を掘り起こすことも可能であろう。