治承四年(一一八〇)八月、以仁王(もちひとおう)の令旨を受けた源頼朝の平家討伐の挙兵によって、関東地方は戦雲につつまれ、各地から源家ゆかりの武将が呼応、決起するに至った。平治の乱(一一五九)以来、頼朝は伊豆の蛭ケ小島に流されていたが、雌伏二〇年、同地の豪族北条時政の援助のもとに、源氏再興の兵を挙げたのである。しかし、八月二十三日、石橋山の合戦で惨敗した頼朝は、海路房総にのがれ、ようやくのことで安房国平北郡猟島(りょうじま)(鋸南町竜島)に上陸し、土肥実平(どひさねひら)・三浦義明らと合流した。
当時、房総地方では千葉常胤と、同族の上総広常が勢力を得ていたが、頼朝が安房地方に上陸したのは広常の支援を期待したものと推測される。以下、野口実氏の研究成果を引用しながら、頼朝挙兵直前の房総地方における武士団の動向を概観してみよう(野口実「頼朝逆襲・成功の条件」『歴史読本』昭和61年4月号)。