当時の下総国内での有力武士団としては、千葉氏と、千田(ちだ)庄(香取郡多古町)の土着貴族である藤原氏(北家為光流)があげられる。千葉氏は、すでに国衙(こくが)において下総権介職(千葉介)を占めており、千葉庄(千葉市)を本領としていた。
藤原氏は「保延二年(一一三六)、公田官物(こうでんかんもつ)(年貢)の未納を口実として、千葉氏から相馬郷(我孫子市)・立花郷(香取郡東庄町)を没収した国守藤原親通(ちかみち)の子孫である。親通は下総守を保延元年から康治元年(一一四二)まで重任し、さらに子息の親方(ちかかた)を後任となし、国内に着々と勢力の扶植をはかった。親通の所領は次子親盛に相伝され、その子の親正は中央で、皇嘉門院聖子(こうかもんいんせいし)(崇徳中宮)に仕えて判官代(ほうがんだい)となり、世に「千田庄領家判官代」と称された。平忠盛(清盛の父)の女を妻として、その貴種性と平家との姻戚関係を背景とした親正は、原・金原・匝瑳など、藤原氏土着以前から千田庄・匝瑳北条(八日市場市)に分立していた千葉氏同族の在地勢力を統合して、栗山川の上中流域に大武士団を形成していた。」(野口論文)といわれる。