(2) 常胤と広常の明暗

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 治承四年(一一八〇)八月下旬、海路安房に上陸した頼朝は、九月上旬、三浦義澄と協力して長狭常伴を討伐、安房地方の武士団を制圧し、一方、頼朝からの特使を受けた千葉常胤は、一族あげて郎等を率いて頼朝に協力し、九月十三日、目代の館を攻撃して、平家に対する公然たる謀叛に踏み切ったのである。
 他方、広常は「軍士等を聚(つのる)の間、遅参す」と称して参着せず、頼朝軍の背後を脅かす存在であった(『吾妻鏡』)。しかし、『源平闘諍録(とうじょうろく)』の記述によれば、「十月一日、広常は頼朝を安房から上総国府(市原市)に迎えて」おり、広常遅参の件(くだり)は『吾妻鏡』の創作であるものと理解される。その後、「上総平氏に支援された頼朝軍は、常胤不在の千葉庄に侵入してきた藤原親正の軍を、結城浜(千葉市寒川町)に撃破して、下総国府(市川市)まで進軍した。前引の『源平討諍録』によれば、親正勢の進軍経路は、匝瑳北条の内山館から武射郡の横路(よこじ)(成東町)を越え、臼井の馬橋(佐倉市)を渡って、千葉庄の結城浜へ向かった」とされる。当然、郷土周辺の村々においても、親正勢と千葉方との戦闘が展開され、大椎城からも親正勢を討つために多くの将士が出陣したものと思われる。「結城浜の戦闘で敗走した親正勢は、血路を開いて千田庄の次浦館(多古町)へと退却された」とされるが、『吾妻鏡』の記述によれば、「敗れた親正は生けどられ、下総国府において頼朝の面前に引き出され」ている。その後の親正については不明であるが、千田庄の在地支配権は藤原氏から千葉氏へと移り、栗山川沿岸には千葉氏支流の人々が土着したものと推定される。(当時の在地状況については、野口実氏の高著『坂東武士団の成立と発展』に詳しい。)
 十月上旬、頼朝は「常胤・広常らの準備した船で、大井・隅田の両河を渡り、武蔵を経て相模に進み」、二〇万余の大軍を率いて鎌倉に入ったのである。かくて、「頼朝は石橋山での惨敗以来、わずか四か月余にして、実力をもって関東地方の大部分を平定した」のであった。この頼朝の東国政権樹立のかげには坂東武士団の活躍があったが、ことに千葉常胤は、頼朝に対して鎌倉居住と関東経営をつねに説き、西国の平家討伐や奥州征伐にも「東海大将軍」として従軍するなど、幕府創業の功臣としての面目を遺憾なく発揮したのである。この常胤の忠節に対して、頼朝は「すべからく司馬(常胤)を以て父となすべし」と感激し、終生、常胤を側近に召したと伝えられる(『吾妻鏡』)。
 一方、広常は重要視されず、その不遜な言動が頼朝の誤解を招き、寿永二年(一一八三)鎌倉の営中で梶原景時に暗殺され、一族の所領悉くを没収されるという悲惨な結末を迎えたのである。翌三年正月、広常の本領である上総一宮庄の玉前(たまさき)神社の神官から、広常が生前に宿願があって、甲(よろい)一領が神前に奉納されたとの事実が報告された。『吾妻鏡』によれば、治承六年(一一八二)広常が「頼朝の心中祈願成就と東国泰平」とを願って神前に奉納したもので、この寄進状を見た頼朝はおおいに後悔したと記されている。しかし、上総氏一門の所領は復活されず、千葉氏以下の人々によって分領されるに至った(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。
 広常は、上総一円にわたる領主制を展開したが、野口実氏によると、広常私領の分割状況は左記のとおりである(野口実「上総千葉氏について」『千葉史学』5)。
 
 ①千葉常胤――市東郡・市西郡・武射南郷・玉崎庄(一宮庄)
 ②和田義盛――畦蒜(あびる)南庄・伊北庄・橘木庄・飯富庄・幾与宇
 ③足利義兼――畦蒜北庄
 ④土屋義清――武射北郷
 ⑤三浦義澄――周西郡
 
 当時、郷土周辺の村々が属した山辺北郡・山辺南部の状況については不明であるが、近接する武射南北(山武郡北部)・玉崎庄(一宮町)・橘木庄(茂原市)の地は、それぞれ千葉・土屋・和田の諸氏によって継承された。とくに、武射郡の南北分割は木戸川を境界域としているものと推定され、武射北郷(北郡)は現在の横芝町・松尾町・芝山町にわたる範囲と思われる。『鎌倉遺文』中の建保四年(一二一六)八月二十六日付「関東御教書(かんとうみぎょうしょ)案」には「上総国武射北郷の事、故大将家の御時より前地頭(土屋)義清の請所として」とあり、相模国余綾郡中村庄(神奈川県)を本領とする土屋次郎義清(兵衛尉)が武射北郷を継承したことが確認される(野口論文一八頁)。因みに、この土屋氏は、忠常の乱に連座して僧侶となった山辺頼尊の末流であり、かつて山辺郡一帯に君臨した由緒によることも十分に考えられる。