(3) 千葉六党(りくとう)の形成

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『吾妻鏡』によれば、寿永元年(一一八二)将軍頼朝の嫡子頼家の誕生に際して、千葉常胤の妻女は御台所(みだいどころ)政子の帯親をつとめ、また長子の胤政が安産祈願の奉幣使として香取神宮に参拝している。この将軍嫡子の「お七夜の儀」は常胤が承って、儀式には常胤の妻女が陪膳し、子息六人は白衣(しらきぬ)の水干袴(すいかんばかま)に容儀を整え同席、進物には胤政、師常は甲(よろい)をかつぎ、胤信・胤盛は馬を引き、胤通は弓箭(きゅうせん)、胤頼は剣(つるぎ)を各々庭上に並べた。この時、頼朝は「兄弟皆容儀神妙の壮士」と感嘆し、居並ぶ諸将も、その盛観を等しく称讃したといわれる。
 これは頼朝と常胤の間柄を具体的に示す逸話であるが、常胤は単なる幕府創業の功臣ではなく、鎌倉の弁谷と甘縄に屋敷を構えて、頼朝一家とは親密な交際関係にあった。将軍頼朝は、再挙の忠勤を肝に銘じ、終生常胤を宿老として優遇したのである。さて、文治元年(一一八五)の守護職補任の以後、常胤は下総における所領の一部を六人の子息たちに分与した。すなわち、嫡子胤政は千葉介を世襲して家督を継ぎ、次郎師常は常胤が伝承した相馬郡を受けて、その郡主となって相馬氏を称した。また、三郎胤盛は千葉庄武石郷(千葉市)を所領し、一方、四郎胤信は大須賀保(大栄町)を伝領、保内の松子城を本拠とした。さらに五郎胤通は葛飾郡国分郷(市川市)を分与され、一方、六郎胤頼は東庄(とうのしょう)三十三郷(東庄町・山田町・小見川町)を領して東氏(とうし)を称するが、後には三崎庄(銚子市・海上町・飯岡町)をも併領した。この六人の兄弟たちは、惣領家である胤政を中心に、一朝事ある際には団結して、世に「千葉六党」と称される強大な武士団組織を形成していった。

千葉六党略系譜
 
 さらに文治五年(一一八九)の頼朝の東北遠征は、関東武士団の東北移住をもたらしたが、その中で注目されるのは千葉氏の陸奥、とくに東海道を中心とする移住・発展である。海道方面を進撃して軍功を重ねた常胤は、平泉藤原氏滅亡後の論功行賞において、その浜通り地方などに広大な所領を与えられた。やがて、千葉氏の所領は、本領の下総以下、上総・武蔵・常陸、あるいは美濃方面、遠く九州肥前にまで及び、全国的に散在する広大な所領を背景として、千葉常胤とその一門は「東国御家人の重鎮」の政治的地位を保持するのである。