源平争乱の後、鎌倉の亀ヶ谷に居所を定めた頼朝は、やがてここに幕府をひらいて武家政治をはじめた。この幕府成立の過程を概観してみると、治承四年(一一八〇)十一月、頼朝は「侍所(さむらいどころ)」を設置、和田義盛を別当に任じて関東の御家人を統轄させている。さらに、元暦元年(一一八四)十月には「公文所(くもんじょ)」と「問注所(もんちゅうじょ)」が設置され、公文所は大江広元を別当に任じ一般の庶務・行政を担当させ、また問注所は三善康信を執事として訴訟事務を取り扱わせている。一方、文治元年(一一八五)には諸国の治安維持を目的として、国ごとに守護が置かれ、公領・荘園には地頭が設置された。(以下、岡野敬生・宮沢嘉夫共著『要約整理日本史』をテキストに、幕府・守護・地頭・御家人について概観したい。)
藤原泰衡(やすひら)を討ち東北地方を平定した頼朝は、建久元年(一一九〇)には権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえのたいしょう)に任命され、さらに同三年には征夷大将軍に任ぜられ、幕府を創設した。この鎌倉幕府の政治の根本をなすものは、守護・地頭の設定であり、これによって幕府の全国支配を可能にした点にある。国ごとに設置された守護職は、幕府の設立に功労のあった有力御家人が任命され、一国の軍事・警察および御家人の統制を主な任務とした。その多くは世襲制で、下総国の場合、治承四年以降、元弘三年(一三三三)に至るまで千葉氏が守護職を独占している。一方、上総国の守護は、一時期、足利氏の一族が確認されるものの、鎌倉時代については不明な点が多い。さらに、全国に散在する公領や荘園に配置された地頭職は、一般の御家人が任命され、その任務は公領・荘園の管理、徴税および治安の維持などであった。頼朝は地頭の設置にあたり、それまでの在地(荘園)の領主であった人々を地頭に任命し、荘園の管理権や地頭給田を保証している。はじめは、全国的に配置しようと企てたが、荘園領主側の反対が多く、平家没官領(へいけぼつかんりょう)や闕所地(けっしょち)に限って実施された。
平安時代以来、武士の社会は棟梁のもとに家人・郎等が従属する主従関係を形成していた。幕府は、この武家社会の私的な主従関係を、将軍を棟梁とする公的組織に組み入れた軍事政権であった。
将軍と主従関係を結んだ武士のことを「御家人」とよび、主君と従者との間には所領を仲介として、「御恩」と「奉公」との関係で結ばれていた。御恩とは、将軍から御家人に対して与えるもので、(1)御家人の土地の所有権を保証する「本領安堵(ほんりょうあんど)」、(2)功労のあった者に新しく土地を与える「新恩地給付(しんおんちきゅうふ)」、(3)守護・地頭への任命や朝廷の官職(国司など)への推薦等などである。また、奉公とは、将軍からの御恩に対して、御家人の将軍に対する義務のことである。すなわち、(1)都の警備にあたる「大番役(おおばんやく)」、(2)鎌倉の警備にあたる「鎌倉番役」、(3)戦時に従軍する「軍時番役」、そのほか、一定の課役を負担する「御家人役(ごけにんやく)」などがあった。