平安時代の中期以降、房総各地には多くの荘園が形成され、やがて荘園は地方武士団の活動の温床となった。房総半島の北部では、下総台地をめぐる太日河(ふとひがわ)流域、手賀沼・印旛沼・香取浦の周辺が古墳時代から開発され、相馬御厨をはじめ葛西庄・神崎庄・大須賀保・橘庄(東庄)などの荘園が形成された。一方、南房総では、各河川の流域に展開する小平野をひかえ、谷地や扇状地、台地の縁辺部が耕地化されて、天羽庄・群房庄・姉崎庄・丸御厨などが形成されている(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。
また、開発のおくれた両総地方、とりわけ九十九里沿岸では、寛平(かんぴょう)二年(八九〇)八月の藤原菅根以下に施入に始まる藻原庄(もばらのしょう)(興福寺領・茂原市)以下、橘木庄(安楽寿院領・茂原市)、玉崎庄(上西門院領・一宮町)、千田庄(皇嘉門院領・多古町)などを除いては、鎌倉以降の中世的荘園とされている。事実、『吾妻鏡』の文治二年(一一八六)三月十二日条に、下総国内の荘園として一四庄が記されているが、九十九里沿岸では三崎庄(銚子市・海上町・飯岡町)と匝瑳南庄(八日市場市・光町・野栄町)の二庄のみで、臨海低地の本格的開発は中世後期以降であるものと考えられる。山辺・武射地方に形成された荘園としては、伊勢神領である武射御厨(成東町)や、報国寺領の山辺保(東金市)、領主未詳の山辺庄などが知られている。以下、郷土周辺の荘園について概観してみたい。