『吾妻鏡』宝治元年(一二四七)六月七日条によれば、足利正義は千葉秀胤の遺跡を拝領の際、その半分を伊勢神宮に寄進している。これが遠山形・武射の両御厨で、武射御厨は一名南々郷(南郷)とも称された(『神鳳抄』)。清水正健編の『荘園志料』によれば、この御厨は「和名抄、山辺郡武射郷の地なり。今郡中に武射田村あり、又松ケ谷村近傍を南郷と云ふ、皆厨域なり。」と注し、成東町南部から東金市の武射田付近にかけての荘園であったとしている。
中世の武射郡は、すでに十三世紀初頭、南郷(郡)・北郷(郡)に分割されており、南郷の地には印東一族の南郷師常、北郷には戸田常政が土着していた。武射御厨の経営年代については不明であるが、南北朝の動乱期にはすでに解体していたものと推定される。その厨域については、武射南郷一円と推定されるが、観応三年(一三五二)七月には、御厨内の小松村が足利尊氏によって鎌倉宝戒寺へ寄進されている(『宝戒寺文書』)。
一方、武射北郷については、「建保年間(一二一三~一九)地頭土屋義清の請所(うけどころ)(本所・九条家)として准布六〇〇反を負担し、文和三年(一三五四)後光厳天皇の綸旨によって佐々木道誉に与えられている」(『九条家本中右記』裏文書・『佐々木文書』)。以下、『角川日本地名大辞典』12(千葉県・昭59)の歴史地名を引用しつつ、中世山辺郡の村々について考えてみたい(辞典本文引用は「 」で示した)。