(4) 山辺庄

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 山辺庄は室町期から見える荘名で、前引の『荘園志料』では「山辺庄、領主未詳。郡中、市場・於幾・曽根倉(ママ)・寺方諸村を汎称す。」と載せ、その荘域を当時の坂田郷(横芝町北部)であったとしている。芝山町に所在する観音教寺の嘉吉二年(一四四二)在銘銅製棟札には「「奉造立宝塔一基、上総国山辺庄天応山観音教寺、大檀那平胤直・平胤賢、嘉吉二年壬戌二月」と陰刻されている。平胤直・胤賢は千葉介と推測され、円城寺胤貞・渡辺続家らと合力して宝塔一基を造立したとある。一方、東金市の西福寺の天文二十一年(一五五二)在銘鰐口には「上総国山辺庄最福寺」とあって、芝山町から東金市にかけての荘園であったものと推定される。
 また、旧村々の天正期検地帳にも山之辺庄嶋戸村(成東町)・山野辺庄鳥喰村(横芝町)・山野辺庄古和郷水深村(松尾町)など、近世初頭まで中世的地名である荘園の遺称が使われていた例が多く認められる。