すでに山辺・武射地方の中世荘園について概観したが、平安時代の中期以降、房総各地にも多くの荘園が形成され、在地武士団の活動の温床となった。この庄園制の全国的拡大がみられる十一~十二世紀において、古代律令制に基ずく国領体制(郡郷制)も急速に解体し、中世的な郡・郷・保・別名などの支配単位が併列的な形で数多く出現してくる。ここでは「郷」といっても、『和名抄』に記載される古代郡郷制とは異なった領域としての郷であり、別名なども要するに国領の一部分の管理を在地の豪族が請負っている単位である。律令以来の古代的「郷」は、八世紀以降、その解体の過程で荘園をはじめとする御厨・牧(まき)・杣(そま)・薗(その)など、貴族や有力寺社の所領に転化し、一方、国衙領内部などの行政的な部分も大きく変化していった(「中世郷土の歴史地理」『中世郷土史研究法』島田次郎)。
十三世紀以降、『和名抄』記載の古代の郷名は史料・文献から姿を消し、代わって中世的に郷名や荘名が登場してくる。房総地方の場合、少なからず初期荘園が認められるものの、その多くは断片的な史料に確認されるにとどまり、成立事情や伝領の経過は明確ではない。以下、山武地方における中世的郷村の変遷について整理してみると、武射郡の場合、『和名抄』段階では一一郷であったものが、山辺庄が成立したとみられる、十四世紀ごろには一八郷となっている。また、山辺郡では九郷であったものが、一五郷・四荘園に変化している。表1のように、埴屋(埴谷)を除いて、山武地方では古代の郷がほとんど消滅しており、新しく成立した二八郷を基盤として中世の歴史が展開されたのである。
表1 ◎山武地方における中世的郡郷