これに対して、新しく登場する中世の郡・郷・庄は、丘陵台地に奥深く入り込み、山林・牧野をも含めた領域的単位であり、必ずしも河川系統によって分割されたわけではない。中世における農地の開発は、台地からの湧水を利用して、台地に樹枝状に入り込んだ浸蝕谷に階段状の「谷田」(棚田)が形成されていった。以下、各史料に見られる中世山辺郡の郷村を整理して、当時の在地状況の一端を整理してみたい。
『和名抄』の山辺郡は、「上総国一一郡のうちで、禾生(あわふ)・岡山・菅屋・山口・高文・草野(かやの)・武射(むさ)の七郷から成り、これが平安末期に南北に分割され」て、中世的郡が成立したとみられる。鎌倉時代の史料には所見がないが、十四世紀以降、山辺・武射二郡とも南部・北部の名称があらわれる。山辺北郡の初見史料は元弘三年(一三三三)の『反町(そりまち)文書』で、山辺北郡内鹿見塚(境郷)が後醍醐天皇から鎌倉浄光明寺に寄進されている。さらに、「延元元年(一三三六)八月には、山辺北郡・山辺南郡の地頭職が同天皇から春日部重行の相継者若法師に安堵され」ている(『上杉文書』)。
また、応安八年(一三七五)の市原八幡宮造営に際し、山辺南北・武射南北の四郡は国衙領として、同宮の左右六所宮二宇の造営するための国役を負担」している。すでに紹介した山辺保・武射御厨などの荘園を内包しながらも、山辺・武射の両郡は、多くの郷村は国衙領であったものと理解される。当時の郡域や郷村の実態については不明な点が多いが、片継的に伝承された史料中の郷名を整理してみると、北郡には粟宇・郡名・堺・田馬・武射田・東士河・森・山口・小西の諸郷がみられ、東金市を中心に山武町・当町の一部にかけて山辺北郡が存在したものと推測される。一方、南郡には堀内・堀代・土気・大椎・大網・金谷の諸郷がみられ、当町を中心に千葉市の東部にかけての地域であったものと推定される(表2)。
表2 山辺郡の分割と郷村
各郷における村落状況は全く不明であるが、例えば建武元年(一三三四)の『法華堂文書』には「上総国北山辺郡森郷内藤大夫名」とあり、その内部構造は郡―郷―名(村)の名編成をもつ本名体制であったことが知られる。さらに十文字荒野村(郡名郷)、駒込・赤荻両村(堀代郷)、本郷(土気郷)などの村落名も知られ、開発の進展とともに郷の下に多くの「村」が営まれ、本郷に対して「枝郷」(新開・新田・荒場・荒子)などが営まれた可能性が考えられる。
ここで注目されるのは、貞和二年(一三四六)の「度解郡堀内郷」(『藻原寺文書』)を初見とする土気郡の出現であるが、山辺南郡中の堀代・土気・大椎・大網の諸郷が所属したものと推測される。さらに、応永二十六年(一四一九)の『円覚寺文書』に「土気郡堀代郷駒込・赤荻両村」が記され、また、『土気古城再興伝来記』永禄十二年(一五六九)条には「土気郡大網郷」が載せられている。一方、旧土気町の県(あがた)神社に伝蔵された鰐口の銘文中には「南山辺郡県宮」とあって、永徳元年(一三八一)当時、郷土周辺には土気郡と山辺南郡が併存していたことが知られる。これは、土気郡が山辺南郡の「別名」であったことを物語るもので、有力領主層の支配領域を以って示された私称的郡名であるものと思われる。