建武三年(一三三六)、足利尊氏は京都の室町に幕府をひらき武家政権を樹立するが、中央政治と地方武士を二分した南北朝両集団の対立は明徳三年(一三九二)まで続いて、応永年間(一三九四~一四二七)三代将軍義満のとき、ようやく幕府の体制が整ったのである。室町幕府の仕組みは、将軍の補佐役として管領をおき、足利氏とは同族である細川・畠山・斯波の三氏から任命され、その合議によって政策が決定された。そのため、侍所・政所・問注所などの諸機関はあまり重要視されなかったが、ただ侍所は管領(かんれい)につぐ重職で、軍事・刑事裁判・京都の警備を担当していた。侍所の長官を所司といい、赤松・山名・京極・一色の四氏が交代で任にあった。一方、地方機関としては、鎌倉府以下、九州・奥州・羽州の各探題が設けられ、さらに国々には守護・地頭が置かれ鎮撫と民政の任にあたった。
室町幕府の政治機構は、将軍の権力は大きかったものの、南北朝の内乱期、尊氏は有力守護に協力を求めたために、その連合政権としての性格がつよく、幕府の動向は有力守護の利害関係に左右されがちであった。また、守護は国内の行政・司法・徴税・軍事支配権を掌握していたから、しだいに独立的要素が強くなり、やがて幕府の統制が行きとどかなくなった。
さて、北条氏の滅亡後、足利尊氏は京都に在ったが、関東が鎌倉幕府以来、武家政権の根拠地である重要性を考慮し、弟直義(ただよし)、次いで長男義詮(よしあきら)を鎌倉におき関東を治めさせた。貞和五年(一三四九)、二男基氏と義詮と交替させ、公方(くぼう)以下の組織を整えて「鎌倉府」と称した。一般には鎌倉公方・鎌倉殿(かまくらどの)・鎌倉御所(ごしょ)などの呼称が知られ、長官(公方)のもとに侍所以下の諸機関があり、独立した一幕府の観があった。その管轄地域は、相模以下、上総・下総・安房・武蔵・常陸・上野・下野および甲斐・伊豆の一〇か国である。
鎌倉府の長官は、基氏以降、代々その子孫が世襲したが、氏満・満兼・持氏と継ぎ、満兼の時代に公方を称するに至った。公方の補佐役である執事は「関東管領」と呼ばれ、上杉氏が世襲した。その有力家臣としては、下総の千葉氏をはじめ、長沼・結城・佐竹・小野・那須・宇都宮などがいたが、これらの部将をもって「関東八家」と称し、幕府の「国持衆」に擬したりもした。