(2) 上総地方の守護職

177 ~ 178 / 1367ページ
 南北朝の動乱以降、室町時代を通じて最も成長したのは守護である。半済法(はんぜいほう)や守護請(しゅごうけ)などの合法的手段によって、領国内の年貢を抑留し、各地の荘園を侵略しつつ私領の拡大をはかり、国内の地頭・荘官を被官(家臣)として組織するなど、強大な勢力を得る者も少くなかった。一方においては、幕府の要職を占め、このために室町幕府は守護大名の寄合世帯とまでいわれる。守護大名の強大化は、幕府にとって必ずしもよろこぶべき現象ではなく、このため有力な守護大名を抑えることで精一杯であったともいえる。
 さて、上総国における室町時代の守護は掲表の如くであるが、観応二年(一三五一)の佐々木秀綱以降、千葉氏胤・佐々木導誉・新田義政・同直明と継いで、犬懸(いぬがけ)上杉氏へと継承される(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優 表3)。上杉氏の守護補任(ぶにん)の史料としては、次の貞治三年(一三六四)の『反町文書』をあげることができる。
 
    「足利義詮御教書」
 上総国守護職事、所補任也、早守先例、可致沙汰之状如件
   貞治三年十二月七日
                    (義詮)
                      花押
   上杉左馬助殿
 
表3 室町時代の上総守護
氏  名任      期
佐々木秀綱観応2(1351)~
千葉氏胤観応3(1352)~文和4(1355)
佐々木導誉文和4(1355)~延文1(1356)
千葉氏胤康安2(1362)~
新田義政貞治3(1364)4月~7月
新田直明貞治3(1364)7月~
上杉朝房貞治3(1364)~
上杉朝宗永和2(1376)~応永21(1414)
上杉定頼応永25(1418)

 この足利義詮(よしあきら)(一三三〇~六七)は、室町幕府の第二代将軍で、この文書は「御判御教書」とよばれるもので、上杉左馬守(朝房)を上総国の守護職に補任した公式の辞令である(『中学生の歴史資料集・千葉県』市原権三郎編)。
 さらに、永和二年(一三七六)以降は、その子の中務少輔朝宗が継ぎ、関東管領として公方満兼に仕へ、関東の政務と軍事に多くの功績をあげた。しかし、応永十六年(一四〇九)七月、満兼が病没すると、朝宗は追慕のあまり上総国長柄山胎蔵寺(長生郡長柄町)に隠退、境内に住庵を営み「大雲庵蒼竜軒」と号したと伝承される。