さて、上総国における室町時代の守護は掲表の如くであるが、観応二年(一三五一)の佐々木秀綱以降、千葉氏胤・佐々木導誉・新田義政・同直明と継いで、犬懸(いぬがけ)上杉氏へと継承される(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優 表3)。上杉氏の守護補任(ぶにん)の史料としては、次の貞治三年(一三六四)の『反町文書』をあげることができる。
「足利義詮御教書」
上総国守護職事、所補任也、早守先例、可致沙汰之状如件
貞治三年十二月七日
(義詮)
花押
上杉左馬助殿
表3 室町時代の上総守護 |
氏 名 | 任 期 |
佐々木秀綱 | 観応2(1351)~ |
千葉氏胤 | 観応3(1352)~文和4(1355) |
佐々木導誉 | 文和4(1355)~延文1(1356) |
千葉氏胤 | 康安2(1362)~ |
新田義政 | 貞治3(1364)4月~7月 |
新田直明 | 貞治3(1364)7月~ |
上杉朝房 | 貞治3(1364)~ |
上杉朝宗 | 永和2(1376)~応永21(1414) |
上杉定頼 | 応永25(1418) |
この足利義詮(よしあきら)(一三三〇~六七)は、室町幕府の第二代将軍で、この文書は「御判御教書」とよばれるもので、上杉左馬守(朝房)を上総国の守護職に補任した公式の辞令である(『中学生の歴史資料集・千葉県』市原権三郎編)。
さらに、永和二年(一三七六)以降は、その子の中務少輔朝宗が継ぎ、関東管領として公方満兼に仕へ、関東の政務と軍事に多くの功績をあげた。しかし、応永十六年(一四〇九)七月、満兼が病没すると、朝宗は追慕のあまり上総国長柄山胎蔵寺(長生郡長柄町)に隠退、境内に住庵を営み「大雲庵蒼竜軒」と号したと伝承される。