(3) 上杉禅秀の叛乱

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 足利満兼の没後、その子の持氏が鎌倉公方となり、管領には上杉憲定が就任、持氏を補佐した。応永十八年(一四一一)、憲定が管領の職を辞すと、上杉朝宗(犬懸)の子氏憲が管領となり、氏憲は入道して禅秀と号した。この上杉禅秀の叛乱は、応永二十三(一四一六)に勃発するがこれは上杉氏の内紛と将軍家の継嗣問題、鎌倉公方持氏と叔父満隆との対立が直接の原因であった。
『鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)』によれば、公方持氏は近臣の讒言(ざんげん)によって禅秀家人の所領を没収したので、褝秀は持氏を諫めるが相容れなかった。このため、禅秀はしばらく出仕せず、ついに辞職したのである。持氏はもとより禅秀に好感をもっていなかったので、この辞職をすみやかに受理、禅秀と反目の立場にあった山内上杉氏の憲基を管領にした。一方、京都では、兄義持に代って将軍になろうと企てていた義嗣が、関東のこのような形勢に眼をつけ、持氏に対して不満をもつ叔父満隆と禅秀に叛乱の誘いをかけて、東西に事を起そうと計画をすすめていた。
 この義嗣の誘いを容れた禅秀は、満隆にすすめて挙兵するが、このとき、禅秀の姻戚である千葉介満胤と子息の修理大夫兼胤をはじめ、多くの豪族や国人(こくじん)が参加、関東地方は一時内乱状態となった。鎌倉府を掌握して勝利を得た禅秀は、満隆の養子である持仲を公方として、自らはその管領となった。これを伝聞した将軍義持は、東国・北国に対して出陣を命じて、山名・今川両氏をして持氏を援助、持氏は鎌倉に攻めいった。禅秀軍の士気はくずれ、持氏側に走る部将も多く、応永二十四年(一四一七)、禅秀は鶴ケ岡八幡宮の別当坊(鎌倉市雪下)で自殺し、持氏は鎌倉府へと帰還して事件は一応落着した。