(4) 上総本一揆の蜂起

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 応永二十五年(一四一八)、禅秀の乱後、犬懸上杉氏の根拠地であった上総国内で、禅秀の余党である上総本一揆の叛乱がおこった。『鎌倉大草紙』や『喜連川判鑑(きつれがわはんかがみ)』などによれば、一揆の首謀者は上総国武射郡埴谷郷(はんやごう)(山武町)の領主である埴谷小太郎重氏で、禅秀の執事であったとされる(『関東中心足利時代の研究』渡辺世祐)。重氏は、はじめ持氏に降って赦免を請うたが許されず、同年五月、一色左近将監のひきいる鎌倉府の追討軍に包囲されたのである。
 このとき、持氏は街道の社寺に制札を発して、軍勢の乱暴狼藉を禁止したが、五月六日には円覚寺領の上総国畔蒜(あびる)庄亀山郷まで進駐している。また、左近将監が上総八幡(市原市)に着陣したとき、常陸国住人の鹿島憲幹・烟田(かまた)胤幹の軍勢が合流、各地に転戦して一揆を討ち、埴谷重氏の平三城(市原市)を陥落させた。
 同二十六年正月、上総本一揆が再び蜂起したので、鎌倉府は木戸範懐(のりかね)を派遣して、二月中旬には市原方面の諸城を攻略した。当時、同地方の治安維持に努力していた烟田胤幹は、範懐と協力して一揆の根城である上総坂本城(長南町)へと攻め寄せた。城将の埴谷重氏はよく防戦して、烟田胤幹は城の切岸にのぼって奮闘したが、その家人の多くは負傷した(『烟田文書』)。坂本城の攻防戦は八〇余日に及んだが、五月になって守将の重氏はついに降参した。木戸範懐は重氏を捕えて鎌倉に帰り、これを由比ケ浜に斬ったと伝えられる(『鎌倉大草紙』)。
 この上総本一揆が、どのような性格の集団なのか、また叛乱の経過についても不明な点が多い。禅秀の乱後、公方持氏は反対勢力の鎮圧をすすめ、多くの闕所を生み出し、それを鶴ケ岡八幡宮などに寄進していった。こうした持氏の戦後処理に危機感を抱いた禅秀余党の国人層は、同盟(一揆)を結んで蜂起したものとみられ、まさに自己の所領を保全するための武装集団であったものと推測される。