禅秀の乱で幕府の援助を得た鎌倉公方持氏は、将軍の継嗣問題をめぐって、今度は幕府に反抗した。永享元年(一四二九)、足利義教が六代将軍になると、かねて幕府と不和であった持氏は義教に反抗、これを戒める管領の上杉憲実とも対立し、憲実は本国上野に籠居するに至った。永享十年(一四三八)、持氏は憲実追討の兵を挙げるが、これを機に将軍義教は持氏討伐を決し、今川・武田・小笠原の諸氏に出兵を下知、箱根足柄に持氏軍を破った。持氏は鎌倉を退き、剃髪して謹慎したが義教は許さず、翌年二月、憲実に持氏の居所(永安寺)を囲ませたので、持氏は自殺し果てるに至った。いわゆる「永享の乱」である。
永享十二年(一四四〇)正月、結城氏朝は下総の結城に拠って、持氏の遺児(安王(やすおう)・春王(はるおう))を奉じて挙兵した。このとき、結城氏は千葉介胤直・馬加康胤・上杉持朝に攻められて敗退し、安王・春王は捕えられて京都への護送中、美濃の垂水(たるみ)で斬首された。この「結城合戦」の際、安王に与力して討死した里見家基の子義実は、鎌倉公方再興の希望を胸に秘め、安房の地にのがれて房総里見氏の基礎を固めたのである(『延命寺本里見系図』)。
この後、関東の実権は上杉氏に移るが、憲実は幕府と相談の結果、持氏の遺児永寿丸(成氏)を鎌倉公方として、管領には憲実の子憲忠が補任され、千葉胤直・里見義実・武田信長(上総守護)などがこれを援助する体制であった。やがて、成長した足利成氏は、父持氏と上杉氏の関係を知り、ついに憲忠を殺害した。
康正元年(一四五五)、憲忠殺害の罪を問われた成氏は、幕府が派遣した今川範忠に攻められ、鎌倉を退いて下総古河に拠った。以降、成氏は「古河公方」と称され、政氏・高基・晴氏・義氏と継いでいる。さらに幕府は、成氏追討のために八代将軍義政の弟政知を下向させたが、政知は鎌倉に入部することができず、長禄元年(一四五七)、伊豆田方郡堀越にとどまり成氏に対向、世に「堀越公方」と呼ばれた。ここに成氏は、千葉・里見・武田の勢力を背景に上杉氏と敢然と対立、幕府は上杉氏を援助したので、関東の地は再び乱れたのである。