(6) 千葉氏の分裂と馬加康胤

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 室町期の千葉氏は、鎌倉府の中に隠然たる勢力を保持していたものの、惣領制の崩壊とともに庶子家の独立傾向が強まり、一方では領国内の国人層の抬頭も著しかった。千葉介満胤には三子があり、家督は修理大夫兼胤が継ぎ、次子の康胤は常陸大掾家(だいじょうけ)の養子となっていた。また、三男の隆胤(胤隆)は小弓城(千葉市南生実)に在って原氏を称し、兄兼胤の臣下に列していた(『千葉大系図』)。
『千学集抄(せんがくしゅうしょう)』によれば、次子の康胤は「初め常陸大掾殿の養子に為らせ給ひ、後帰りて、馬加(まくわり)に屋形造りをなされ移らせ給ふ。馬加にて其の儘(まま)千葉の御家を御継ぎなされし也。」と記されている。これによると、大掾家を去って下総に帰国した康胤は、馬加(千葉市幕張町)の地に居領して分家したことが知られる。やがて、千葉城(千葉市猪鼻城)の惣領家は兼胤の死後、長子の胤直によって継承されるが、康胤は胤直の叔父にあたる。

千葉氏系譜
 
 当時、関東の情勢は、古河公方成氏と管領の上杉房顕の二大勢力が対立、房総地方でも両陣営が一触即発の危機をはらんでいた。すなわち、千葉介胤直は、宿老である円城寺尚任の進言によって上杉方に協力、馬加康胤は弟の原隆胤の一族とともに成氏方に加担していた(『千葉県の歴史』小笠原長和・川村優)。
『鎌倉大草紙』によると、享徳四年(康正元年・一四五五)三月、武蔵の分倍(ぶばい)河原の合戦で成氏方が勝利すると、その余勢をかって馬加・原の連合軍は、夜陰に乗じて千葉城の胤直・胤宣父子を急襲したとされる。不意を討たれた胤直は、上杉氏の援軍を求めることもできず、香取の山間部の千田庄(多古町)へと敗走した。胤直・胤宣父子は、在縁の人々に守護されて勢力を回復するが、八月中旬、馬加氏は全力をあげて千田庄を包囲、胤直の本拠である多胡・志摩両城を攻撃したが、やがて胤直・胤宣父子は城外にのがれ自殺して果てたのである。
 この千葉介胤直の最後の地は、千田庄内の土橋山東禅寺付近の阿弥陀堂といわれ、その遺骸は同寺別当の頭覚院によって火葬に付されて、千葉庄内の大日寺に納骨されたと伝承される。現在、多古町寺作の東褝廃寺の南方墓地の一隅、胤直の墓塔と称される大型の五輪塔が残されている。千葉本宗家を滅亡させた馬加康胤は、嫡子胤持に千葉介の名跡を継がせ、原氏とともに足利成氏の一勢力となった。
 一方、上杉方は胤直の甥にあたる実胤・自胤の兄弟を国府台城(市川市)に入れて、千葉城奪還の機会を窺うことになる。以後、千葉氏とその庶流は二派に分裂して相争うのであるが、この馬加氏の叛乱は、古代末期の開発領主の系譜に連なる千葉氏一門の内部矛盾の総決算でもあり、両総地方における惣領制武士団の崩壊点でもあった。
 (本節における通史的叙述については、『日本史辞典』高柳光寿・竹内理三編の記事を参考・引用した。)