三 房総の戦国大名

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 応仁の乱(一四六七~七七)後、幕府の権威はまったく失われ、下剋上の風潮が全国的となった。領国統治を完全になしえなかった守護大名の輩下から、土豪・小領主・守護代などが抬頭、守護大名は次々に没落して、全国は弱肉強食の群雄が割拠する状態となった(以下、『要約整理日本史』岡野敬生・宮沢嘉夫共著をテキストに、関東地方の政治状況を概観したい)。
 関東地方では永享の乱(一四三八)以降、鎌倉公方は古河・堀越の両家に分裂し、関東管領上杉氏も扇谷(おおぎがやつ)・詑間(たくま)・犬懸・山内(やまのうち)に分かれ、互いに争っていた。江戸城を初めて築城した太田持資(道灌)は扇谷上杉氏の執事であり、軍事・和歌等に長じていたが、山内上杉憲定らの讒言によって、主君の扇谷上杉定政に殺された。さらに「結城の合戦」で、関東の豪族は二派に分かれて戦い、その分立状態は長く続いたので、鎌倉公方の権力は回復されなかった。
 この混乱に乗じて、駿河守護今川氏の姻戚として客分になっていた北条早雲(伊勢長氏・宗瑞)は、堀越公方を滅ぼして伊豆を奪い、のち相模に進出、小田原城を本拠として北条氏五代の基をつくった。その子氏綱・孫氏康に至り、北条氏は関東の大半を支配する大名となった。上杉氏内紛の結果、最後に残った山内憲政も、北条氏に追われて越後にのがれ、もとの家宰(かさい)である長尾景虎に家を譲った。守護上杉氏の名跡を継いだ景虎は、上杉謙信と名のり、越後から関東にまで進出、北条氏と対立した。
 一方、甲斐の統一に成功した武田晴信(信玄)は、信濃に領国を拡張、やがて上野・武蔵に進出して北条氏と争い、西に向かっては織田信長・徳川家康と戦った。この北条・上杉・武田の三氏は、互いに東国の覇権を争ったが、とくに上杉・武田の五度に及ぶ「川中島の戦い」は有名である。
 これらの戦国大名は、領国の統治に力をつくし、郷村(ごうそん)の支配者を家臣団に編成して、領内の独立勢力を排除して一円知行(いちえんちぎょう)をなしとげ、大名領国を形成した。また、領国内の秩序を維持し、家臣団を統制するために、分国法を制定したり、家臣団の城下町への移住を行ったりした。
表4
上 総正木氏(大多喜)時綱――義時――時茂――憲時――時堯
武田氏(真里谷)道信――宗信――吉信――清信――豊信
下 総千葉氏(佐 倉)勝胤――昌胤――利胤――親胤――胤胤
足利氏(古 河)成氏――政氏――高基――晴氏――義氏
結城氏(結城)成朝――氏広――政朝――政勝――晴朝
安 房里見氏(白 浜)義通――実堯――義堯――義弘――義頼
(『日本史辞典』高柳光寿・竹内理三編)

 戦国時代といえば、応仁の乱から永禄十一年(一五六八)の織田信長の上洛まで、約一〇〇年間をさすのが一般的である。しかし、後北条氏の支配下にあった関東地方ではやや異なり、本稿においては、天正十八年(一五九〇)の小田原城敗滅までを戦国時代として捉えてみた。
 房総半島の戦国大名としては、安房の里見氏以下、上総の武田・正木・酒井・下総の結城・足利・千葉の諸氏が著名である。各氏の世系は、掲表のごとく整理できるが、「本表では応仁・文明(一四~一五世紀)から天正末年(一六世紀)までの期間を漠然ととり、各家ごとに当主五代の世系を示した。世系は必ずしも父子の相続関係ではなく、父の早死による孫の嗣立や養子による相続をも含み、また各家の五世代の長さは一様ではない。一方、居城地名および歴代人名については、その主なもの一つだけを示した」(『日本史辞典』高柳光寿・竹内理三編の表・註を引用)。
 まず、上総においては、甲斐守護たる武田信満の次子信長が上杉氏の守護代として入国、在地の土豪層を組織して勢力をたくわえ、やがて庁南・真里谷(まりや)の両武田の祖となった。そのほか、大多喜・勝浦の両城に拠った正木氏や万喜城(まんぎじょう)の土岐氏などがあり、さらには土気・東金の両酒井氏が勢力を得ていた。
 また、下総においては、鎌倉期以降の名族たる千葉氏、古河公方たる足利氏、さらに結城氏があげられ、とくに千葉氏の一門は分裂の連続で凋落の一途をたどっている。千葉氏の衰退とともに、反面では原氏の優勢が注目され、後に原氏の家宰であった小金城(松戸市)の高城氏が現われて実権を掌握した。
 一方、安房においては、新興勢力たる里見氏が着々と勢力をたくわえ、関東における一方の雄となった。すなわち、結城合戦で敗死した里見家基の子義実は、鎌倉公方たる足利氏の再興を胸に秘めて、武蔵・相模を経て安房へとのがれた。やがて、安西・金余(かなまり)・丸・東条の諸氏を抑えて安房一国を征服、やがて上総・下総にまで勢力を拡大し、有力な戦国大名に成長していった(『中学生の歴史資料集・千葉県』市原権三郎編)。