まず『和名抄』にみられなかった新しい郡郷が出現していることである。建武政権の成立から三年たった延元元年(一三三六)八月の「後醍醐天皇倫旨」によれば「山辺南北」とあって山辺南郡・北郡の春日部判官重行跡の地頭職が若法師以下に安堵されている(『千葉県史料中世篇県外文書』三〇一)。このことから四〇年たった応安八年(一三七五)の「市原八幡国役庄役注進状」に「山辺南郡」「山辺北郡」とあって、武射南郡、北郡とともに国衙領であり国役を負担している(同、『県外文書』三三〇)。旧土気町域が「山辺南郡」に属したことは永徳元年(一三八一)十二月の県神社の鰐口の銘文によってもあきらかである。これには「上総国南山辺郡県宮奉懸鰐口敬白永徳元年十二月日願主秀倫」とよめる。この鰐口はどのようないきさつによるのか明治二十八年(一八九五)に長南町の報恩寺の裏山から発見された(『日本金石文の研究』篠崎四郎)。『上総国誌』で著者の安川柳渓はこの県神社の旧社地について「古者、在リ二土気城内一字曰二旧県地一」としるしている。このことから当社は酒井氏によって土気城の鬼門除として現社地にうつされたのではないかとみられる。現社地がいま大網白里町の地内にあるにもかかわらず、土気飛び地となっていたことと移転説は符合しているようにおもえる。
こんどは茂原市の日蓮宗藻原寺に伝わる「仏堂伽藍記」に注目してみたい。貞和二年(一三四六)の記事として「刑部郡」の郡名とともに「度解郡堀内郷」という郡郷名がしるされているが、一説に土気はトウケ(峠)よりおこったといわれ、これが「土気郡」の初見かとおもわれる。そうして「堀内郷」とあってどこと比定できないが、この郷内に住んだ鋳造技術をもつ手工業者が、藻原寺の復興において鰐口鋳造に働いたことがしられる。
また、応永二十六年(一四一九)の円覚寺文書にその寺領として「土気郡堀代郷駒込・赤荻両村」と記され、新しい郡郷と村名がみえている(同、『中世篇県外文書』五四二)。土気郡ならびに堀代郷の呼称は現在なく、郡域、郷域もつかめないがおそらく旧土気町域を中心とし台地端が浜平野に接してひろがった大網白里町の駒込(大字)・赤荻(駒込の小字)を郷域の一部とするものであったことがしられる。
ついで土気郡内におこったとみられる郷のひとつ「大椎郷」が大須賀氏相伝の所領として元亀四年(一五七三)の大須賀政朝判物(はんもつ)にでてくる(『大慈恩寺文書』)。
当地名を苗字として名のった武士を系図・記録類からひろいだすと、上総氏の一族戸気五郎・大椎五郎(「神代本千葉系図」)、千葉胤政の二男「泰胤土気太郎千田に移る」(『千学集抄』)など、上総氏や千葉氏の一族がこの地と関係していたことがわかる。
在地に成長したとみられない酒井氏は、いかにして土気城をかまえ土気郡を領有するにいたったのであろうか。
「鎌倉大草紙」(『房総叢書』第二輯)は、
濱式部少輔春利総州とけとう金先祖。
としている。しかし、濱氏と酒井氏がどう関係づけられるのか他にこれをしる確かなものがない。
両酒井氏の祖は定隆(「土気古城再興伝来記」は以後「伝来記」と略記。「土気城双廃記」は以後「双廃記」と略記)、または貞隆(『寛政重修諸家譜』所収の『酒井氏系図』)と記され、入道して清伝と号したという(「本興寺棟札銘」(『千葉県史料中世篇県外文書』三一三)「双廃記」酒井氏系図)。
前出の「酒井氏系図」が成立をみたのは両酒井氏の子孫がのちに幕臣となったからである。それには藤原秀郷の支流と称し、定隆については、
上総国濱村に住し、武勇の誉ありて……。とみえるがこれ以外に徴すべきものがない。これにつづくように「双廃記」に「上総下総之境ニ中野村ト云所ニ住居被レ成」とあり、あるいは、
「元来中野村先年某開起罷在候処ニ御座候」とある。中野村は現在の千葉市中野町である。鹿島川上流の台地上に位置する。中世の郷名はわからないが、この地にある長秀山本城寺はその寺号のとおり境内が中世の城郭の遺構であること、定隆の帰依した妙満寺一六世日泰が延徳元年(一四八九)に創建したという寺伝をもっている。土気進出以前の定隆を莫然とではあるが関係づける地である。
川名登氏は「浜村を本領として浜氏を称した武士の子孫であった清伝(定隆)は山辺北郡境郷に進出して本拠を構え、酒井氏と称した。そしてここを拠点として勢力を拡大し、土気城をとり、本拠を土気に移し」たと、定隆の土気進出までを推測している(『房総の郷土史』第3号)。
写真 土気城址
「双廃記」に
長享年中ニ土気之古城ヲ取立御移リ被レ遊候。
とみえる。ところで中野の東南方、鹿島川の水源が土気であるから水源地帯に進出したということである。土気城跡は千葉市本郷町の東の台地端にあり、古く土気太郎が、のちには畠山六郎が居城したと伝承する。土気市民センター前を大網方面に進み「日本航空研修所」という案内板の指示に沿って左折し急坂をのぼると高台にでる。すぐ右折して進む―このあたり小字「新宿」「札ノ辻」、左折して「仲町」「大手先」「大手」という。城の表門のあったあたりか。道路の両側には、酒井氏時代の家臣の子孫にあたる方が今も住んでいるという。道が急に細くなって左へカーブすると、城跡の南から北へかけてめぐらされた深い外濠と土塁を横切る。南から北東にかけては約九〇メートルの断崖で自然の要害である。三の堀を越えて、右に三の丸跡、二と一の堀をこえて右に二の丸跡、この奥に本丸跡がある。このあたり「大鼓屋」「御蔵前」「城ノ内」「見土堀」の小字を検出する。本丸付近は日本航空研修所の構内になっているが、地形を保存しながら芝生が張られ、本丸跡の九十九里浜平野を一望する一角に「土気城址」の碑がたてられている(研修所構内の部分については、管理人に申し出れば、いつでも見学を許可してくれる)。土気城跡から「大手先」のT字路に戻り、まっすぐな道路を北へ、畑や雑木林の中を行くこと約一キロメートル、左方に椎の古木のこんもりとした場所がある。日蓮宗の僧本多日生の筆になる「土気酒井氏の墳墓」と書いた石碑が建ち、五つの小墳丘が点在して聖域をつくっている。また、これは御経塚であるともいわれている。
図1 土気城附近の略図
そこからさらに約一キロメートル前方へ進むと、県道に近い右手前に県神社のうっそうたる森がある。左方は一面の畑で、古墳が点在する(金谷古墳群)。祭神は大日孁貴神(おおひるめむちのかみ)、息長足姫尊、日本武尊の三神である。安川柳渓は前出の著「上総国誌」で、かつては土気城内にあったものをここに移したと記している。神社には天正七年(一五七九)所願成就を記念して土気酒井氏五代康治が寄進した、板絵馬著色武者絵二面が伝わる。一面は牛若丸、他の一面は弁慶が描かれ、京の五条の橋の牛若と弁慶の出会いを力強い線で対照的に描いている桃山文化の作品である(口絵参照)。
ところで定隆は日蓮宗日什門流の僧日泰をまねき、城下の南西の地を選んで一寺を創建し、日蓮宗の本寿寺をひらいた(県神社の別当寺である)。また城下の南にあった極楽法寺という真言宗の寺も改宗させて法華宗の善勝寺としたという。