また、両酒井氏の嫡流が断絶したことが『断家譜』(続群書類従完成会刊)にみえている。「酒井権之助記」(『東金市史史料篇二』所収)は東金酒井氏の庶流の手になるものである。
定隆が「とけの城」=土気城進出前の土気・大網・東金附近は、中世的な郡郷庄保に編成されており、国衙領のほか、千葉氏の一族大須賀氏の所領、円覚寺領、浄光明寺領、覚園寺領、報国寺領等の寺領が点在していた。
図2 酒井氏進出前の土気・大網・東金附近
定隆が土気城に進出したと伝える長享年間(一四八七~八九)は、古河公方成氏が振わず、千葉氏の勢力は全く不振となり、家臣の原氏が主家をしのぐ力をもち、安房の里見氏が勢力を上総方面にのばして目覚しい動きをしめしていた。また伊豆におこった北条早雲が堀越公方政知を攻めて自殺させ小田原を本拠としたのもこのころである。
こうした動きのなかでこの地方の国衙領・寺領等の支配権は土豪の押領に帰していったとおもわれる。
このような時に土気郡に進出して在地の諸勢力を圧倒して新しい支配をうちたてていったのが両酒井氏の祖となった定隆であろう。「本興寺棟札銘」(前出)には土気城進出六年前にあたる文明十三年(一四八一)に定隆(清伝とすることについて系図・記録とも一致している)が大檀那として僧日泰を援助して鎌倉大町の辻にあった本興寺の堂を建立したことがしるされている。中野在城にあたるころであろうか。定隆(清伝)の存在と日泰との密接な関係を伝える確実な史料である。
定隆は土気・大網・東金方面へ、その経営する領国を形成していった。谷田から九十九里浜平野の沖積平地に散開する農村がその基盤である。この地域は両総用水の完成するまでは水不足になやまされたところである。谷田の奥にいまもたくさんみられる貯水池は古くからの水利のよりどころであったとおもわれる。宮谷の本国寺には南北朝期ころの雨乞いの祖師像が伝わっている。
要地には一族を配置してその支配がかためられた。
日泰の創建になる土気城下の本寿寺に伝わった「伝来記」(勝山豊七編大正二年刊)上総の日什門流の寺々を歴住した僧の手になるかと、みられるものである。
「伝来記」に、
玄治殿御子にカタハなる人あり。腰より下縊れて無し。去れ共馬上の達者なる事御家中並ぶ人なし。玄治殿如何の思召なるや板倉氏を名乗り御家人に成されけり。板倉大蔵介と名乗り七十九歳にして初めて一子を儲く。成人して長門守道治と申けり。
「双廃記」にもほぼ同様の記述がある。一説に板倉大蔵介は母方の姓を称したといい、長峰の集落の奥の台地縁辺に屋敷跡と伝えられる場所がある。土気城と東金城をむすぶ中間地点で前面には九十九里浜平野の沖積平地がひろがる。また裏山のかげにはいまも大きな貯水池があるが、このころの開発にそのはじまりをもつものかもしれない。
図3 酒井氏の進出と日什門流の寺院
この大蔵介の子が長門守道治で、識字能力のゆたかな人で「双廃記」の著者である。
「双廃記」に
然バ名字之百姓ハ酒井殿ヨリ扶持方ヲ取、田畑ヲ耕ニモ畔アゼニ鑓長刀藤柄ノ大小ヲ立置キ、土気ニテ鐘、太鼓、貝吹候時ハ、耕地ヨリ直ニアガリ、先帳面ニ付也。一番ニ鐘、二番ニ太鼓、三番ニ貝吹ヤウニテ、諸事支度有レ之。
と地侍層を軍事力として組織したさまがわかる。また「在々所々心替り之者共有而」「四角八方ヘ敵ヲシリゾケル事、其頃之老若共存所也」と領国の不安定な様子ものべられている。
定隆は晩年に土気城を長子定治につがせると東金に進出し、東金城を三男の隆敏にゆずった。以後、土気・東金の酒井氏を両酒井とよぶ、よびかたもおこなわれたのである。
また、土気酒井氏は本納、東金酒井氏は依古島方面に支配を拡大した。土気城主四代胤治が本納城主黒熊大膳亮を滅亡させ、城代をおいたのは永禄年中のことであるという。浜平野の一角、依古島の大関城主畠山重康は東金方で攻め滅ぼしたという。
両酒井氏の領域について、これをしるした当時の記録・絵図のようなものはない。よって「伝来記」「双廃記」「土気東金両酒井記」の記述、「伝来記」所収の土気城主家臣幕下石附等にあらわれた地名、上総十か寺の所在地などを加えて地図上におとし、当地方における両酒井氏支配下の領国のおおまかな復元をこころみてみよう。
図4 両酒井氏の領域
また、その領国が戦火にさらされる様子がかいまみられるのが、年不詳八月付の北条氏政が家臣清水上野入道にあてた書状(同『中世篇県外文書』二二〇)である。
……去十九東金へ押詰、土気東金両地郷村毎日悉打散候、諸軍ニ申付、敵之兵粮を苅取、今明日中一宮へ籠置候、……
強大な勢力の侵攻下に戦火をうける土気東金附近の農村が眼にうつる。
鎌倉大町の辻にあった法華宗日什門流の本興寺は、永禄二年(一五五九)に酒井胤治によって再興された酒井氏ゆかりの寺である。
「本興寺棟札銘」によれば、
(A)大工九郎左衛門吉久、息丹三郎、弟藤七郎、土気之大工日向(野路政治)、善生寺大工玄藩(藤代)允政助、本納大工岩崎隼人治定、本国寺大工小四郎、井上緑川(野路)源次郎、(岩崎)源五郎、(鈴木)甚四郎、(同)助五郎、([ ])與八郎、以上自上総国上十一人、
(B)右用脚之事、胤治本願力之故、不暇于書、但此内胤治老母妙藝、代物十貫白米十駄助成之而己、一板數之事五千枚、一釘之數一万三千五百、一株上之代物五貫文、酒井(信継)大炊助御内方代物壹貫文、本納之上ヨリ参銭五百文、東之上参銭二百文、富田八郎太郎参銭五百文、一穀物十駄生實御臺、一穀物十五駄酒井左衛門佐胤敏、一代物壹貫文胤敏老母、一薄板物一端靍子、酒井九郎右衛門尉参銭五百文
とみえ、永禄年間の酒井氏の領国経済の一端がわずかに知られる部分である。
(A)は領主によって鎌倉へ動員されていった上総の大工たち十一人を記した部分であるが、土気・本納など城下との関係が濃いと思われるもの、善生寺、本国寺などの寺院とのつながりが濃いと思われるものなど多様なありかたを示している。
(B)は材木、釘などのほか、白米、穀物、貨幣など、かなりな量の物資、貨幣の調達の様子がよみとれる部分である。
酒井氏領国の商工業や商品流通、領国と中央地域との経済的連係などについて考えさせる部分である。
上総衆酒井氏の軍事力が中央の記録にあらわれるのは、「北条氏人数覚書」(「毛利文書」)である。
一坂井左衛門殿 とけの城 三百騎
一坂井右衛門尉 とうかね城 百五十騎
としるされ戦国の強大な勢力の間にある小勢力として、その動向は千葉氏・原氏をたすけ、ときに里見氏とむすび、また北条氏に属するというようにその向背は流動的であった。
永正一四年(一五一七)原胤隆を追って下総生実城に入った足利義明は小弓御所と称した。義明は古河公方成氏の長子政氏の第二子で、北条氏綱に対抗した里見実堯によって擁立された。義明は永正年間(一五〇四~二一)には奥州に下って公方家の勢威をはろうとしたとみられる人物で、今度は公方家の新勢力を関東に樹立する好機と考えたとおもわれる。
天文七年(一五三八)の下総国府台の戦いは、このような義明と兄高基の嫡子晴氏を奉載し関東征覇をめざす北条氏綱の衡突であったが、義明は陣没し北条氏の勝利に終った。敗れた小弓御所の威望はおち、里見義堯の勢力は安房南部に後退し、真里谷、庁南の武田氏、土気の酒井定治、東金の酒井敏房は北条方に投じ、千葉氏、高城氏も北条氏の勢力下にはいった。また、義明の第二子頼淳は里見氏の保護下に公方家の血統を伝えるのみであった。
北条氏の勢力が下総に大きくひろがった。永禄三年(一五六〇)と四年には長尾景虎が北条氏を討とうと関東に侵入し、房総でもこれに対応して兵火が交えられ、酒井氏は北条方として活動した。
永禄七年(一五六四)には再度の国府台合戦が里見義堯・義弘父子と北条氏康・氏政父子との間に戦われ、里見氏の敗北に終った。酒井胤治は、その行動がうたがわれたのをがまんできず戦後は北条氏と断って里見氏に味方して義堯・義弘父子のために働いたことを自ら記しており(「河田文書」)、永禄八年(一五六五)六月付の上杉輝虎から里見義弘にあてた書状にも「乍去酒井中務丞無二相守御父子之前候由、見御書中候」とある(同『中世篇県外文書』八八六)。
永禄八年になると北条氏政が上総に侵入し二月土気城も包囲されて籠城、胤治は東金の酒井政辰が氏政をたすけ、里見氏が一騎の合力さえしてこないのを怒りながら、越後の上杉輝虎に救援を求めた。輝虎は二月二十四日春日山を発して出陣する旨を下野の小山氏にしらせた。輝虎出陣の報が流れると氏政は包囲をといて後退した。
天正四年(一五七六)北条氏政、上総に侵入、このとき土気の酒井胤治、東金の酒井政辰ともに氏政に属して、里見義弘を攻めた。このとき義弘は輝虎の出陣をこうた。このとき毛利輝元から信長挾撃の呼びかけをうけた輝虎は関東出陣を中止した。このため義弘は氏政の和議をうけ入れるにいたった。
天正十八年(一五九〇)七月、北条氏は豊臣秀吉の攻撃をうけて降伏し、関東は新たな状況下におかれることになった。
土気の酒井康治、東金の酒井政辰はともに小田原城に出陣して北条氏を支授していたため、他の房総の諸豪とともにその地位を失った。そのころには彼らが留守にした房総の諸城もことごとく秀吉の軍門に降っていた。
里見義康だけが秀吉に馳せ参じたので安房一国をあたえられて存続をみとめられた。
写真 酒井氏の墳墓ともお経塚ともいわれる (千葉市土気町)