(1) 原胤定と小西築城

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 原氏の築城と伝えられる小西城は、国鉄外房線大網駅の北方約三キロ、日蓮宗の名刹(めいさつ)正法寺の背後、「城山(じょうさん)」の台地上にある。城跡は、北方の台地から南側に突出した半島状の丘陵を利用したもので、その南西は約四〇メートルの断崖になっており、要害の地である。小西城跡の詳細については別項で触れるが、丘陵中央の畑が本丸跡であると伝承され、周囲約二〇〇メートル、高さ約二メートルの土塁や深い空堀が残っている。『山武地方誌』によれば、小西城について次のように記している。
 「小西城――が大網(ママ)町小西台に在り、俗に城山と呼ばれている。永禄年間(一五五八~六九)千葉氏の一族原胤定の築城にかかるものといわれる。これよりさき、原氏の拠点は小弓(千葉氏生実)にあったが、大永五年(一五二五)足利義明・里見義弘・武田豊三(庁南城主)の連合軍に攻略され、城主原友幸は戦死し、その一族はのがれて臼井城(印旛郡旧臼井町)に拠ったのであるが、天文七年(一五三八)北条氏綱が小弓城主足利義明を討って(国府台の戦)小弓城を復するに及び、原胤定も亦小弓に復帰し、少くとも永禄四年(一五六一)までここにいたことが旧記に載っているから、小西築城はこの時以後に属するものと考えられる。

写真 小西城遠景
 
 なお、天正三年(一五七五)には臼井城を子胤栄に譲り、自らは小西城に隠栖する事になったという。従って、小西城は胤定の隠居城であり、臼井・小弓の両城は共に本城として原氏に属していたものと考える。」
 『山武郡郷土誌』も同様の記事を載せているが、ともに『千葉大系図』の原胤定の注記によって、小西築城の年代を推定しているものと思われる。『千葉大系図』によれば、原胤定は上総介と称して「上総国山辺郡小西城に居り、天文六年(一五三七)十月、小弓御所源義明没落せしを以て、胤定小弓城主となる。弘治三年(一五五七)十月、下総国臼井の本城に移り、嫡子胤清は小弓城に居らしむ。天正三年(一五七五)胤定再び小西城に移り、胤栄をして臼井城に居らしめたり」と伝えられる。邨岡良弼は別の記事を引用して、その著書『日本地理志料』の中で「小西の城址は城山に在り。永禄中、千葉の族臣原胤継の築く所なり。正法寺有り。長禄中に僧日意創む、世に小西檀林と称す。城内に胤継の墓在り焉。」と述べている。
 この原胤継に関連して、宍倉家所蔵の『小西略賦』は、以下の記事を載せている。
 
 「上総州山辺郡小西郷は、原能登守平胤継まで相続九代の居城の地にして、春の花さけは秋の紅葉と変ず、去ル天正十四年(一五八六)千葉・上杉対陣の砌、栄華の夢は夏の夜の嵐に覚め、栄耀の台は冬の日の凩(こがらし)にあふて、一時の煙と立登りてよりは、原の一党は此時に絶たり。
  小西殿は土気酒井殿一門のよしみを以て相頼み様子なりしかども、宜敷挨拶なきにや、野田の野道で切腹せられて、今に小西殿塚として是有申也。されど名将の遺風しばしばありて、律令古跡その伝を残す。居城に昇りて四方に目をうながせば、房南遠く霞にうかび、当国七分は眼前に望む。後は峨々たる山谷を儲け、前は堀岸屛風を立たる如し。要害人馬のおよぶべくもあらず。枡形・木戸脇・馬場・駒止・城坂・城谷・城之腰・宿圃・向城・堀之内・鍛冶屋が台の畑には武士の姿を残して、弓をはり矢をつがふ。(以下略)」
 
 やや正確さに欠ける記述ではあるが、小西郷の地が原氏九代にわたる居城地であり、最後の城主である能登守胤継は、千葉・上杉の合戦に敗走したことが知られる。さらに、小西殿と称される原氏は、土気・東金の両酒井とは姻戚関係にあったが、土気城からの援軍が得られず、能登守胤継は敗走の途中で自殺して果てたともある。一方、当時(おそらくは江戸時代中期)、小西城の周辺には枡形・木戸脇・駒止・城坂・城之腰・堀之内・向城などの小地名が存在したことが知られ、中世の城郭遺構を考える上で興味深いものがある。
 この「能登守胤継」を名のる原氏一族の武士については、『千葉大系図』以下の系譜類には記載がなく、「相続九代」の原氏については全く不明である。小西城の造営者が、この能登守胤継なのか、または上総介胤定なのか、中世の根本史料を欠いているために、殆ど「伝説の世界」である。