(2) 原胤継の正法寺建立

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 原氏の外護寺として知られる妙高山正法寺は、長禄二年(一四五八)、当時の郷主である原胤継(肥前入道行朝)が、松戸市に所在する平賀本土寺の九世日意上人を招いて開山した日蓮宗の名刹である(佐倉市飯塚・長国寺文書)。深く日意上人に帰依した胤継は、自分の居館を提供して寺としたとも、また館の一隅にあった阿弥陀堂を廃して法華堂に収めたのが始まりであるとも伝承される。その後、七世日悟上人は天正十九年(一五九〇)小西檀林を開設したが、江戸時代には学僧九〇〇余を擁して、飯高・中村の両檀林とともに「両総三檀林」と称された。

写真 妙高山正法寺
 
 この正法寺の墓地内には、原能登守胤継の碑があって、碑面には「小西城主原能登守平胤継当山開基大檀那日源大居士、永禄十三年庚午八月十五日」と刻まれている。正法寺開山の日意上人から胤継に授与された寺宝の本尊曼陀羅(三幅封)には、「長禄二戊寅正月吉日認之、平胤継授之」の識語が記されている。従って、胤継の碑は正法寺開山後一一二年を経て建てられたもので、従来は「恐らく胤継の子孫が、供養のために建立したものと考えられる。胤継の死亡年月日ははっきりしない。」との説が専らであった(『大網白里町の文化財』)。
 詳細については別項で検討するが、『本土寺過去帳』の記録によれば、原能登守と平胤継は全くの別人である。まず、「小西殿」と称された原能登守(日源)については、「日源――小西能登守、永禄十三年庚午八月十日、千葉寺下ニテ打死」とあって、同時に家人の志賀弥三郎(道円)・中間(妙道)も併記されており、主従三人の戦死であったことが知られる。一方、本尊曼陀羅を授与された平胤継は、飯塚長国寺(佐倉市)の記録によって「肥前入道行朝」と称したことが知られ、『本戸寺過去帳』には「廿八日、原肥前入道行朝文明十三年(一四八一)辛丑三月」との記載がある。正法寺の『原継図』においても、原壱岐守の系に「肥前守胤継(行朝)」を載せ、伯耆守の系に「能登守平胤継(胤久)」を記している。

写真 日意染筆の曼陀羅
 
 『本土寺過去帳』の「日源」記事によって、正法寺境内の碑は供養のためではなく、まさに原能登守の墓塔であることが知られる。文化七年(一八一〇)十一月二十三日付の『正法寺記録』によると、「妙高山正法寺開基大檀那原能登守平胤継又胤久、永録十三年庚午八月十日、野田村土気村之間ニ而御生害、奉称御法号正法寺殿前能登州大守啓音日源大居士也、御引導当山六世日厳聖人申上也」とあって、さらに「此度御石塔再建立能化同列心願ニ而、為檀林繁昌大報恩面々出金候」と付記している。この付記によって、現在の碑は文化七年に再建立されたもので、小西檀林の繁栄を願う人々の浄財による建碑であったことが理解される。
正法寺本原継図
正法寺本原継図
写真 能登守供養塔
写真 能登守供養塔

 ともあれ、名刹正法寺は長禄二年(一四五八)正月、日意上人の唱導によって、小西城主の原氏を外護者として開山したが、前引の「小西略賦」は次のような逸話を載せている。
 
  「関東法華三檀林といへる正法精舎は、いにしへ真言宗ニして、智寂法印の寺とかや、さるを長禄二戊寅年、平賀山本土寺八祖妙高院日意上人、法印ト宗法問答を為し、終に法印負ニ及びて、夜中ひそかに退山せしかば、翌年正月八日、上人住職と替り、平賀山ト両寺兼持とかや、是より近村法華に改たなり。就中、城主胤継法華を信じて、正法寺大檀越となりて已(以)来、蓮(日蓮)高祖の宗法を守り継て、本迹一致の妙法華経を誦し、時機相応の題目を弘め、目出度法都の霊地の本堂・経堂・講堂を開く云々。」
 
この記事によって、一五世紀の中頃、正法寺が真言宗から日連宗に改宗されたことが知られる。郷土周辺における本土寺末の日蓮宗寺院としては、小西正法寺・経蔵寺・山口の海潮寺・福相寺、山田歓喜寺(東金市)、高師実相寺・藻原妙光寺(茂原市)、木原長徳寺・埴谷常福寺(山武町)、飯櫃徳蔵寺(芝山町)など多数がある。これらの寺々は、一五~一七世紀の改宗寺院で、本土寺の教線拡大とともに、原氏以下、酒井・設楽・宍倉・埴谷・山室などの有力な地方武士を外護者として獲得していった。その一例として木原長徳寺をみると、「宍倉家文書」によれば「開山妙高院曰意聖人、文明年中(一四六九~八六)之頃、上総・下総両国之内、牛ニ乗候て三日之間御弘通有之旨、尤其節迄ハ真言宗ニ御座候処(以下略)」とあって、日意上人の積極的な両総教化が知られる(『山武町史』史料集)。

写真 小西の経蔵寺
 
 以上、原胤継の正法寺建立について概観してきたが、安川惟礼(号柳渓)は高著『上総国誌』(明治十六年刊)の中で、以下のごとく記している。
 
  山辺郡小西村に巨刹ありて、妙高山正法寺と号す。伝に曰く、後花園天皇の長禄二年戊寅正月、僧日意開基なりと。蓋、当時の郷主肥前入道行朝という者、深く日意の宗教を崇信し、ついにその居館を撤して仏舎を作り、正法寺と称す。天正十八年庚寅十一月、七世の法嗣妙道院日悟の時に至り、幕允をもって檀林を設立す(中略)。
  正法寺北山の谷間に、羊腸たる削道ありて、土人、城坂と曰ふ。坂を登れば、則ち東北に高阜あり。御嶽神社の後嶺に連接す。父老伝ふ、往昔、原能登守胤継の拠るところの城跡なりと。宜なるか、当年牙城の址となる。東南は絶谷に臨み、老樹蔚茂として秦莽蹊を没す。其外隍西北に環る処、半ば埋れて田畝となるも、廓然として今なお地形を存す焉。蓋、原胤継は房総治乱記および里見・酒井二記において、かつて、所見なし。其家系もまた詳ならずと雖も、もとより千葉氏の支族なること知るべきなり。
  按ずるに、肥前入道行朝の正法寺を造立するや、長禄二年にあり。而今、同寺境内に一碑あり。其銘に曰く、「古城主原能登守平胤継、元亀元年庚午八月十日寂、当山開基大檀那日源大居士」と。是に由て、これを見れば正法寺創立以後、永禄庚午に至るまで一百十四年。然れば則ち胤継は行朝の子孫なるか。然るに開基大檀那云々と記録するは其故如何、未だ審ならず也。
  一説に、原能登守は永禄十三年八月、野田の役に戦歿す。故に其地を請って小西谷と曰ひ、後に訛り伝へて「古牟加左久(コムガサク)」と曰ふ。今、土気と野田との間に在るもの、すなわち其地か。
  また按ずるに、酒井家記に曰く「永禄八年のころ、里見軍六、七百騎を率いて、潤井戸・草刈より進んで、千葉と土気との間の谷田のある地に陣す。酒井軍もまた逆へ戦ふ。酒井の裨将竹内某、よく射て敵兵十五人を殆す云々。これ野田合戦と謂ふ。」と。然れば則ち原胤継もまた酒井軍を援けて、この役に死するか。蓋、年紀に後先ありと雖も、或は酒井記筆者の謬りあるか、なお後訂を待つ。(以下略)」
 
 やや長文の引用とはなったが、すでに筆者の安川惟礼も肥前入導行朝と能登守胤継を別人として捉え、「胤継は行朝の子孫なるか、然るに開基大檀那云々と録するは、その故如何」と疑問を投げかけている。このことは、文化七年(一八一〇)に原能登守の碑を再建するに際して、寺宝として伝わる日意上人の本尊曼陀羅に記される「平胤継」と、永録十三年八月に千葉寺下で戦死した小西殿(能登守・日源)とが合体して、以後檀林内では同一人物として語り継がれた可能性を推測させるものがある。