日伝上人以来、日実・日満・日願・日饒・日福・日意と継承した本土寺は、南関東における比企谷門流の重要拠点であった。とくに日意上人は両総教化に活躍し、小西正法寺以下、山口海潮寺・山田歓喜寺・高師実相寺・木原長徳寺など多くの寺院を開創している(「宍倉家文書」)。享徳三年(一四五四)の原・円城寺両家の私戦後、原胤房にかわって小弓城主となった原肥前守胤継は、長禄二年(一四五八)正月、日意上人に帰依して本尊曼陀羅を授与されるとともに、山辺郡小西郷内に在った居館(堀之内)を提供して妙高山正法寺を創建した(『千葉大系図』「正法寺記録」)。
写真 山口海潮寺(東金市)
以来、小西の人々は正法寺を介して平賀本土寺と密接な信仰関係で結ばれるが、本土寺側も小西の地を上総布教の拠点としたようである。最近、正法寺の背後台地上から発見された中世板碑の中に、明応八年(一四九九)在銘の「日端逆修」の断碑が確認された。これは小西地区の台上開発(宅地造成)に伴う文化財センターの緊急調査で発掘されたもので、その出土地点は正法寺の北方、柏原神社近傍の台地上である。遺物は武蔵式板碑の下節であるものと思われ、その断碑面には「[ ]寺、為日端[ ]逆修、導師[ ]十三年[ ]明応八年己未八月時正」の文字が認められる。明らかに本土寺一〇世日端上人の逆修板碑とみられ、後出の『本土寺過去帳』には「日端聖人、永正十一年甲戌十一月五日、十番師住四十二年、五十七歳」と記載されている。「逆修」とは生前に「死後の安楽」を願って供養するもので、日端上人の後生安楽を祈念して、小西の人々の合力によって建てられたものと推定される。
写真 板碑拓影
(財)山武郡南部地区文化財センター提供