(1) 本土寺と小西の人々

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 すでに紹介したように、妙高山正法寺は長禄二年(一四五八)正月、平賀本土寺の九世日意上人の唱導によって、小西城主の原胤継を外護者として開山した。松戸市平賀にある長谷山本土寺は、日蓮宗開宗期以来の古刹で、当時の領主である陰山土佐守が法華堂を建立したことに始まる。その後、「千葉氏の一門である曽谷山城守胤直の外護によって本土寺が創建されるが、その開基は文永六年(一二六九)日蓮の六人の高弟(六老僧)中、第二の日朗による」といわれ、あるいは「建治三年(一二七七)、日朗の弟子日伝ともいわれる」が定かではない。日朗上人は、日蓮在世中、すでに池上に「御影堂」を造立しており(本門寺)、さらに鎌倉の比企谷に妙本寺を開創して、布教活動の拠点としていた。その後、下総国葛飾郡平賀郷の領主であった曽谷氏の招きによって、平賀郷内鼻和(塙)の地に本土寺を建立、弟子の日伝をもって経営にあたらせた。この本門・妙本・本土三寺の開創は、日朗の門流(比企谷門流)が中世教団の中で重きをなす基礎をつくり、ともに同門流の「三本寺」あるいは「三長三本」と称された(『日蓮とその門弟』高木豊)。
 日伝上人以来、日実・日満・日願・日饒・日福・日意と継承した本土寺は、南関東における比企谷門流の重要拠点であった。とくに日意上人は両総教化に活躍し、小西正法寺以下、山口海潮寺・山田歓喜寺・高師実相寺・木原長徳寺など多くの寺院を開創している(「宍倉家文書」)。享徳三年(一四五四)の原・円城寺両家の私戦後、原胤房にかわって小弓城主となった原肥前守胤継は、長禄二年(一四五八)正月、日意上人に帰依して本尊曼陀羅を授与されるとともに、山辺郡小西郷内に在った居館(堀之内)を提供して妙高山正法寺を創建した(『千葉大系図』「正法寺記録」)。

写真 山口海潮寺(東金市)
 
 以来、小西の人々は正法寺を介して平賀本土寺と密接な信仰関係で結ばれるが、本土寺側も小西の地を上総布教の拠点としたようである。最近、正法寺の背後台地上から発見された中世板碑の中に、明応八年(一四九九)在銘の「日端逆修」の断碑が確認された。これは小西地区の台上開発(宅地造成)に伴う文化財センターの緊急調査で発掘されたもので、その出土地点は正法寺の北方、柏原神社近傍の台地上である。遺物は武蔵式板碑の下節であるものと思われ、その断碑面には「[ ]寺、為日端[ ]逆修、導師[ ]十三年[ ]明応八年己未八月時正」の文字が認められる。明らかに本土寺一〇世日端上人の逆修板碑とみられ、後出の『本土寺過去帳』には「日端聖人、永正十一年甲戌十一月五日、十番師住四十二年、五十七歳」と記載されている。「逆修」とは生前に「死後の安楽」を願って供養するもので、日端上人の後生安楽を祈念して、小西の人々の合力によって建てられたものと推定される。

写真 板碑拓影
(財)山武郡南部地区文化財センター提供